✴︎神と女神✴︎④
〈9〉おかえりなさい
リピートしてくれる人たちのお陰で保留が確定し、ちょっとした噂にはなったが、月日が経ってもずっと好調でいられるわけではなかった。
新規でついた人が返ってこないこともあったし、頻繁に来ていた人の頻度が低くもなってきていたが、当初の目標である会社のほうはなんとか穏便に閉めることができた。
それで気が抜けてしまったのか、掛け持ちしていたデリヘルで初めて会った一回りも年下の青年に恋をしてしまった。
結婚も離婚もして、この時点で経験人数四桁の身ではあるものの、初めての恋愛に他の男性を生理的に受け付けなくなってしまい、彼が生活費を出してくれるという申し出にもう風俗を辞めようと思い始め、予約の受付をストップした。
普通の人のようにデートして、セックスして、嫉妬して、取り繕って……。
もがき苦しみ、裏も表も喜怒哀楽もあるその生活はまるでまともな人間の世界で生きている夢を見ているようで、夢の中にいた間、神も再び人間に戻れているように見えた私を喜び、励ましてくれていた。
だがいつか、そんな「どす黒くて儚い短い夢」からは醒めて、私は再び、今度は生活の為に復帰することとなる。
神は「おかえりなさい」とだけ言った。
姫予約用のアカウントも消してしまったし、一からのスタート。久々のこの世界は不安なことばかりだった。以前のような百点満点の接客なんてできない……。復帰を見つけてくれた人たちだけが頼りだった。
そんな中、仕事帰りに神と昔のように面談という名の食事に行く機会があったので相談した。
──色々工夫して、あれもこれもとやってみても、なんか違うんです。何をされたらしっくり来るのか……。今の私はわからなくなっています。
そう話すと、神は優しく語り出した。
……私が、生きてきた中で、あれは嬉しかったなぁって思うのは……
若い頃、仕事でくたくたになって帰宅すると妻が「おかえりなさい」って笑顔で迎えてくれたんです。
それだけで、当時の私は疲れも空腹も忘れて、ただただ幸せな気持ちで一杯になりました。
……男って、単純だから、そんなことでも嬉しいんですよ。
そう言って、照れるように笑った。
そして、自由恋愛の始まりに、心の底から「おかえりなさい」と言ってみることを提案され、早速、翌日から試した。
「心の底から」というのが以前ほどできてはいなかったが、相手をつい最近終わった初恋の「彼」だと思い込むことで乗り切った。
馬鹿みたいだけど、その瞬間だけは確かに私は本名も知らない旅人に本当に恋をしていた。
建前から始まる「本気の自由恋愛」はまた、神が作る世界を明るく照らした。
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〈10〉第三の世界
リピーターも増え、やっと、また以前の感覚を取り戻しつつあったある日、受付にいた神の様子がおかしかった。
いつもの綺麗な白髪が乱れて、なんでもないところで躓きそうになったり、なんだかおかしい。髪は真っ白だが肌も綺麗で背も高く、いつもなら少し光って見える神が普通のくたびれたおじさんに見えた。
気にはなったが、私は自分の予約のことで必死だったため、その日は話すタイミングもなく、翌日になってやっと理由を聞こうとすると「なんでもない」とはぐらかす。
……この様子は、なんでもないわけはない。
帰りに食事に誘うと、今日は用事があると初めて断られた。
それを見ていた他の女神に誘われて食事に行くと、オープン時からいる、いつも裏でも旅人のことを思って頑張っていた女神が「第三の世界」に行ってしまったらしいと話してくれた。
彼女の母親から神に「娘が自宅で吊りました」と連絡があったとも言っていた。
仲が良かった女神たちの話によると、もともとお医者さんの薬でなんとか頑張っていたらしく、長年追いかけていたアーティストのチケットを取ってくれたファンクラブの人とどうのこうのというトラブルが発端だったようで、神とは全く関係ない、私から見たら「本気でどうでもいい」理由だった。
ただ悲しみでも憐れみでもなく単純に
「若い頃から芸能の仕事もして、優しくて上品で、物腰も柔らかくて、あんなに綺麗な人も死にたいとか思うんだ」と思った。
私より少し背が小さくて華奢な彼女は真っ白な肌に鼻筋の通った小さな顔、ふわふわの髪に綺麗な目、いつも微笑んでいて、近づくといい匂いがした。
休憩所で会うと「岡村ちゃん、頑張っててえらいっ」と声をかけてきて珍しいお菓子を分けてくれたり、時には急に腕を組んできて「岡村ちゃんなら、こんな時どうしてる?」と、旅人が本当は何を求めているのか相談されたりもしていた。
食事が終わり、女神と別れたあと、私は店に戻った。そして神を連れ出して、行きつけの喫茶店に行った。
「聞きました」とだけ伝えると
「これまでにも何人かいたけど…今回は、ちょっと精神的にきてしまいました」と神は項垂れた。
そして、これを機にもう引退しようと思うとも言った。
肩が落ちて首を曲げたたまま、コーヒーの入ったカップに話しかけるかのように
「私……彼女の異変に、本当に気が付かなかったんです……いや、私は、本当に気が付かなかったんでしょうか?」と、おかしなことを言い出した。
そんな様子に私は何か異変を感じて、咄嗟に
「いま、おかしいですよ」ときつい口調で神に言った。
その時の私は身を乗り出して、多分、神を睨んでいたと思う。必死で、周りは見えていなかった。
そして、私自身がこれまで誰にも言えなかった話……
岡村という名前の由来でもある、学生時代からの親友が同じ方法で逝ってしまったことや、本当は私自身も死ぬために身の回りの全てを綺麗にしようと離婚もして風俗の世界に飛び込んだことを話した。
──よく出前にも来てもらう顔見知りの喫茶店。
これから遊ぼうとしているのか遊んだ後なのか……旅人たちが浮き足だってアルバムを眺めたり携帯に夢中になっているような、それぞれの体温が0.5℃上がるように浮かれた店内。
私たち二人だけが、周りからは見えない硬くて冷たい氷の世界に閉じ込められているかのようだった。
店員さんにだけは私たちが見えているようで、無言で、コーヒーのおかわりと自分たちが食べる用の白黒のアルファベットチョコレートを出してくれた。
コーヒーを見つめる神とチョコレートを見つめる私の間の沈黙に、名前のない、やり場のない怒りに似た感情がわき上がり、私はそれを全て目の前の神にぶつけた。
……こちらでもない、外の世界でもない、彼女は第三の世界に自ら望んで行ったんです。
私たちがこっちの世界で、旅人にとっての天国を作りたいと願うように……。あなたと私がこの世界に辿り着いて、もう少し生きたいと思ったように、彼女は第三の世界に行きたいという願いが叶ったんです。
それは、悪いことですか?
あなたまで、彼女を否定するんですか?
彼女の味方だって言うなら、どうして肯定してくれないんですか?
──逝ってしまった人たちと自分、神と自分が重なり、そう言いながら、神ではなく、もっと関係ないはずの私が泣いていた。
