#書籍紹介/宮崎哲弥著『教養としての上級語彙 知的人生のための500語』(新潮選書、2022年)x佐藤信夫著『レトリック感覚』(講談社学術文庫、1992年)
「書き手」であれば誰しもが憧れるのは、語彙の豊かさと修辞の巧みさである。互いに別物のように見えて、実際には同じ根から芽吹き、表現を支える二つの力だ。プロフェッショナルな文章をものするために、ぜひとも自らの武器として身につけたい力である。本稿では、その探究の手がかりとして、宮崎哲弥『教養としての上級語彙』と佐藤信夫『レトリック感覚』を取り上げる。
■「教養としての上級語彙 」
副題「知的人生のための500語」が示すように、本書には、博覧強記の評論家が青年期から積み上げてきた、地道にして効率的な語彙形成プロセスの結晶として得られた「ワンランク上」の言葉が並んでいる。
宮崎は本書を「日々の暮らしを豊かにし、人生の用、仕事の用に供するための本」と位置づける。
世間の交じらいから、聞こえる・見える、行う・行く・戦う──章ごとに展開されるテーマに照応して「上級語彙」が紹介される構成は、読み応えに満ちている。
「上梓」と「上木」の説明に始まり、同義の慣用句や類似の言い回しをたどりながら、言葉の不思議をめぐる旅が続く。ユニークかつ知的な編集だ。
「なぜ、『上梓』のみが一般性を獲得したのか。文字の読みの難度からいっても、意味の直示性からいっても、『上木』の方が一般的であろうに。」
この疑問に象徴されるように、宮崎の語句に対する好奇心こそが、知的人生を支える語彙の獲得を可能にしたことがわかる。
彼が本や雑誌、新聞から書き留めてきた「語彙ノート」には、「傾ぐ」「恬然」「肌に粟を生ずる」「莞爾」といった、日常では使う機会を疑うような語句が少なくない。
しかし、この探求のプロセス自体が、語彙の増量に不可欠な道であることを示しているのだ。
「言葉の海のただなかに櫂緒絶えて、いづこをはかとさだめかね、ただ、その遠く広く深きにあきれて、おのがまなびの浅きを恥ぢ責むるのみなりき」
本書を開いてまず目にするのは、大槻文彦『ことばのうみ の おくがき』(新訂 大言海)の冒頭部である。大槻が「言葉の海のただなかに櫂緒絶えて」と記したのは、言語の広大さに圧倒される体験を指していた。
宮崎がこの一節を掲げたのは、同じ途方もなさを今日の読者にも共有させるためだろう。語彙を広げる営みは、無数の言葉に囲まれて立ち尽くす感覚と不可分である。
しかし、その混乱こそが新たな思考の芽を育てる場となる。
ここに収められた五百語は、単なる知識のリストではなく、言葉の海を泳ぎ続けるための櫂緒にほかならない。私たちはその一語一語に触れることで、自らの言葉感覚を鍛え直し、表現の可能性を拡張していく。
『教養としての上級語彙』は、実用書の枠を超え、言葉とどう向き合うかという姿勢そのものを問い直す書なのである。
その問いかけを受け継ぐように刊行されたのが、続編『教養としての上級語彙2』だ。副題は「日本語を豊かにするための270語」──洗練された言葉使いを身につける営みに終わりはない。
■「レトリック感覚」
出版社の惹句によれば、本書は「日本人の言葉感覚を活性化して、発見的思考への視点をひらく好著」とある。その宣伝文句に偽りはなく、実際の内容もまさにその評価にふさわしい。本書はその射程を、つぎの大きな定義で明確にしている。
「レトリックが印象的な説得力と芸術的な挑発力を受け持つという通念に見落とされ放置されてきたこと、発見的認識の造形という第三の役割をさぐるこころみである」。
私が手にしたのは、1992年の文庫化から三十年を経て刊行された第48刷である。これほど長く読み継がれてきた背景には、ひとつの普遍的な欲求がある。すなわち、自分の文章に説得効果と美的効果を添えたい、と思うのは「書き手」の性であり、これは昔も今も変わらぬ共通の問題意識なのだ。
本書を読むと、確かに「武器を手に入れた」感覚が宿る。しかしこの感覚は、「レトリック」が持つ両義性と等しく「錯覚」にもなる。
けれど、その「錯覚」こそが、書き手を次なる段階へと押し出す原動力になる。言葉は常に「真理」へと通じる道具ではなく、むしろ曖昧さと遊戯性を孕んでいる。
比喩や換喩、反語や誇張といった修辞は、論理の直線をねじ曲げ、思考の斜めの道を示す。そこにこそ、説得と美の双方を結びつける秘密がある。
佐藤信夫が本書で提示するのは、技巧を超えた「感覚」の次元ではないだろうか。
レトリックは単なる文章技法の寄せ集めではなく、受け手の認識を揺らし、感情を震わせる働きにほかならない。
読者はそこで「自分の言葉が生きている」と錯覚するが、その錯覚は決して無駄ではない。むしろ、それが書き手に挑戦を続けさせる。レトリックは、言葉の虚構性を露わにしながら、同時に言葉への信頼を回復する──本書はその逆説を鮮やかに教えてくれる。
佐藤は、あとがきで、以下のように綴っている。
「レトリックということばが、たいてい憎たらしさやずるさというかたよった連想の中でつかわれるようになってからーーつまり現代人が、認識と表現の可能性をひろげる組織的探求としての古典的レトリック理論を忘れてからーーひさしい。本書で私が、こころみたかったのは、伝統的なレトリック体系が蓄積してきた古い知を、思い出し、そこから新しい可能性をさぐることである。」
この言葉は単なる回顧でも総括でもなく、読者である「書き手」への挑戦状として響く。
忘却された知を呼び覚まし、錯覚に満ちた言葉の力をあえて手に取る勇気を持てるかどうか。それを問われているのは、いままさにこの本を閉じる私たち自身なのだ。
■結び
語彙を拡張する営みと、修辞を操る感覚は、一見別の領域に見えて実は深くつながっている。
宮崎が示したのは、言葉の海に立ち尽くしながらも一語一語を拾い上げて、自らの言語感覚を鍛え直す持続的な姿勢である。
一方、佐藤が示したのは、言葉の操作が単なる技巧にとどまらず、認識そのものを揺さぶり、新しい発見を導く力を秘めているという逆説である。
両者をあわせ読むことで、書き手は「語彙」と「レトリック」を単なる道具としてではなく、思考を育てる契機として受け取るべきだと気づく。
豊かな表現は、知識を積み増すことからではなく、錯覚と混乱をも含んだ言葉の営みに身を投じるところから生まれる。すなわち、言葉に翻弄される経験を恐れず引き受けること──それこそが、書き手にとって最大の資産なのである。
