昔の巡業よもやま①
中止になったヤメ力士相撲。
元プロとはいえ、シロウト相撲ではやっぱり興行が厳しい。どれだけ売れるかという話が全てになってしまう。
昭和の戦前までは怪し気な興行も地方では通じ、成り立ってたらしい。それもこれも本物の相撲を知らなかった、知る手段もロクになかったからといえる。
戦後になっても小部屋は大合併巡業に入れず、やっと1人2人いる十両力士を大関にし、山間を歩く小相撲は残っていた。あの若乃花も三役時代まではそんな巡業で生きていた。それでも観客は満足したものだった。
「史談土俵のうちそと」には戦前にあった旅相撲の見聞がいろいろとある。かなりインチキっぽいものも。この中に元プロはどれだけいたか。
大阪相撲で大関だった相生松五郎は、脱走復帰を繰り返し、引退後京都相撲の一派と巡業をしていた。最後は台湾で客死。
この京都相撲。明治43年の日英博覧会に余興として参加しそのまま異国に消えたといわれる。
日英博覧会の様子は大きく語られていない。
池田雅雄著「土俵今昔 名勝負物語」、読売大相撲72年3月号の「明治角力繁盛記」、73年5月号の「海外巡業の歴史」、相撲1959年「土俵の悲劇人」、2022年7月「謎の横綱大碇紋太郎の最期が判明」などを参考にみてみる。
京都相撲の欧米巡業は3年から5年の長期にわたるものであった。池田雅雄氏も「まことに希有な出来事であり、その成果はともかくとして、半世紀も昔に日本相撲の名を海外に紹介した功績は、認めなければならない」とまず総括する。
この巡業は当時参加していた幕下東川(東京相撲で出羽海部屋の幕下)が親族に送ったはがきによって足跡をたどることができた。
むしろ日英博覧会より、それ以降の旅巡業の方に珍談奇談を残しているといっていい。
明治までは大阪・東京と並んで何とかもっていた京都相撲。かつては三都といわれたものの、この頃になるとどん底といってよく、京都での本場所も客入りが悪い。もっとも三役のほかに東西の幕内も4人程度の小相撲レベルであるだけに無理もないところ。
東京大阪との合併興行がメインで、京都の横綱である大碇は末席に名をつらねて、何とか体面を保つ。あとは地方巡業。といっても取組よりも初っ切りや曲芸がメインの芸人興行であった。
明治42年秋、東北関東を回っていた大碇一行。この興行が不入り。
明治43年1月8日の東京日日新聞によると
西京より越後路を打ちて北海道に乗り込みしが、東京相撲に出会し早早同地逃げだし、奥羽より上州方面へきたりしも、またまた東京と衝突し、重ね重ね失敗して一行四散し、残り15名にて東京へ乗り込み、南千住にて興行したるが、観客さらにきたらず、西京に戻る汽車賃に窮したるより、東京の某某力士に三十円貸してくれと頼み来たりしも、三十円ばかりで帰れるはずがない。またまた遊びの金であるから、帰西の決心見届けぬうちはと、ていよく断りよるよし。
巡業が御難。東京相撲とかち合っては、偽物の京都側はやっていけない。仲間にも逃げられて散々。大碇は東京力士に金の無心をしても断られたようだが、遊び好きですぐに使ってしまい信用を無くしていたという。
4月になって芝神明境内での興行。この一行には東北で合流の木村兵次郎の北海道組がいた。
大碇のけいこから、飛び抜き、初っ切り、甚句といったもの。力士が少ないので名を変えて何度も同じ力士が上がる。しかし客の方もよく似た奴が出るといったぐらい。これはいつもの話で、アトラクションの方が人気。
最も人気あったのは幕下の綾川という老人力士の出し物。愛嬌もので、土俵上に大の字に寝て、腹の上にコメ俵2俵。この上に臼を載せて4人の力士が杵を振って餅を搗く。綾川がびくともしない。綾川の腹は20臼ついても平気だったという。これに大喝采。祝儀のハナも飛んだ。
横綱の大碇は40歳を過ぎた老体といってもいい体躯。しかし土俵入りだけは年期がモノを言ってせり上がりも見事なものだったという。
此の興行は久々に大入りであった。
明治43年1月の新聞によると、前年より日英博覧会で日本の相撲をアトラクションに入れるという構想はあったようだ。
そこで大碇一行の芝神明の興行が評判となり京都相撲に白羽の矢が立った。
当時の大碇は上の通り困窮していた。食いつないで歩く巡業でも「田舎相撲、耄碌ジジイ」と罵声もとび、御難だらけ。
やっと都入りし、この芝神明の興行はなんとか満員となったというところ。給金もろくに払えずやっと今回の興行で給金を分けることができた始末。当の大碇は綱と化粧まわしを残して、質に入れてしまいまさに裸同然。
大碇は元東京相撲の大関。此の興行は14年ぶりの上京だった。仲間や贔屓もいるのだが、挨拶にふさわしい着物すらろくにない。思案の末、自分の弟子で幕下まで進んで東京相撲に移って前頭筆頭までいき花形力士となった碇潟のもとを訪ねる。かつての弟子だが地位は天地の差。
碇潟の側は大碇が東上したことを聞き、初め復帰するように勧誘したが、今さら戻れないと断ったようだ。
明治43年2月の時事新報には
きれいなる場所ぶとんさえなき大碇は、同人と旧誼ある碇潟が、そのもとに遊びに行くと、現時の不如意を訴え、ちりめんふとん、単衣、明け荷の無心を言いしかば
こうして窮状を訴えた。さっそく碇潟は縮緬の単衣に明け荷といった一式を作って贈ったという。横綱ですらまともに文無しという経済状況がうかがえる。
いざ日英博覧会
此の芝神明の興行を熱心に見ていたイギリス人の老紳士がいた。2日目に大碇の支度部屋を訪ねた。
「近く開催する日英博覧会に、日本の民俗風習を紹介する。あなたたちの相撲をぜひ出場させたい」という話。その外国人は英博覧会余興委員という肩書き。日本の相撲のトップは東京相撲。そんなことは承知だった。しかし土俵の真剣勝負では、時間も短く興味は引かない。初っ切りや腹芸の餅つきなど曲芸のような見世物であれば成り立つという判断だったようだ。
明治43年2月の「東京朝日」には大碇の談話があり
14年ぶり東京に参りました。引っ張ってきたのは、西京の一の組で、このほか3百人も力士がいます。この組は初っきりの選り抜きで、東京にはこの真似はできませぬ。まだ40歳になったばかりですので、これから立派に回復するつもりです。東京の碇潟は、太刀山を2度負かしたのに、この1月に負けたのはわからぬ。私が2度負かした相手なら後は何度でも勝ちます。碇野は、碇潟の兄弟子だが今は北海道組の大関で強いものです。毎日見てください。おもしろい相撲が沢山あります。
きょうは英国人が見に来て、日本力士の代表者として渡航してくれと、力士の技量を見に来たのですが、2度も海外いきを妨害されてますから、考えものです。腹で餅をついた綾川は、20臼ぐらい餅をつかせる大力士で、けっしてほかにまね手はない。私もいまにべべができると、ほうぼう遊びに行きますから
京都相撲が300人もいない。この通り大碇は見栄っ張りの性格だった。こんな話となると朗々と語っていたようだ。碇潟が太刀山に負けて分からぬというが、太刀山は大関だけに当然。
こうした中で舞い込んだイギリス行きの話。渡りに船とばかりに承けた。初めは10人程という話だったが、チャンスとばかりに次々と参加を申出、大碇一行の取締、行司、床山など32人に、北海道の木村兵次郎組の碇野、越ノ海(元東京幕下)ら20人を加えた52人。とはいえ落伍者もでて35人に。
大関 大碇・鳳凰
関脇 碇野・越ノ海
小結 熊ケ谷・旭川
前頭 黒岩・碇潟・谷嵐・岩ノ里・轟・園部川
上位はこんな所。
旅費雑費は1人当たり1500円、食料は1日白米5合。しかし渡航まで支度金は渡さぬということで、埼玉の川口と横浜で数日の興行を行った。
3月3日に横浜港を出発。
此の船旅の間、日本のレスラーが乗船していることを知ると、相撲を見せてくれと要望が出て、甲板の上にマットを敷いて取組や初っ切りを演じて評判になった。予行演習ということでなかなかの熱戦に。船長やコックも気をよくし、持参したコメを始め、朝夕料理をしっかり。三等車ながらもよい船旅に。
4月29日にようやく到着。黒紋付を着、白縮緬の兵児帯を巻、オープンカーに一行が分乗、先頭にはブラスバンドの音楽隊がマーチを演奏し、目抜き通りテームズ北岸を行進した。異様な大男の一行に周囲も驚き、次第に歓声も上がる。ところが誰一人英語がわからない。大碇は感激のあまり、バンザイ、バンザイと叫び、周囲もこれに続く。虎の咆哮よろしく驚いたとか。
初日までの間、連日会場に赴き、四本柱や土俵つくりなど懸命に働き、本式に拵えた。給料ももらったが1人6か月で200円。使い果たしたものから大碇に文句を言いだす。興行人に掛け合うと横浜で金主になって世話した皆川亀之助が、700円取りながら500円をはねていた。怒ったとはいえ喧嘩もできず泣き寝入り。大卒初任給が30円という頃。
開場の日、力士26人はたすきを掛け、イギリス政府からの勲章をつけ、皇帝陛下を迎えた。挨拶にはシルクハットをとって迎え、一行も感激。大熱戦を展開した。大碇も横綱土俵入りを披露。花の盛りだった。
幕下の東川が五人抜きで優勝、皇帝自らビクトリーと縫い付けた国旗を賜った。この国旗は長く子孫宅に保存。しかし戦時中にイギリス国旗の部分を切り取られてしまったという。
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