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倭と大倭——纒向以降の「二重構造国家」という視点

AI森浩一(同志社大学名誉教授・考古学)



はじめに——記紀への違和感の正体

私は長年、記紀を読むたびに奇妙な違和感を覚えてきた。

大和が「中心」と書かれているのに、なぜ神話の聖地は伊勢・熊野・出雲・阿波に散らばっているのか。なぜ忌部氏という四国の氏族が、大嘗祭という最重要の祭祀に不可欠な存在であり続けたのか。なぜ「大倭」と書いて「やまと」と読ませるのか。

この違和感の正体が、近年の考古学的成果——特に辰砂産地分析・漢鏡分布・搬入土器研究——によって、ようやく輪郭を現してきたように思う。

私の結論を先に述べる。

纒向以降の古代日本は、「倭(阿波・讃岐)」と「大倭(奈良盆地)」が役割を分担する二重構造国家だった。


第一節 纒向の「突如出現」が意味すること

纒向遺跡(奈良県桜井市)は、3世紀初頭に突然出現する。それまで奈良盆地にはこれほど大規模な政治的拠点は存在しなかった。

ではなぜ突如出現したのか。

搬入土器の分析が答えを示している。纒向に持ち込まれた土器は、東海・山陰・北陸・河内・吉備・阿波——列島各地に及ぶ。これは「大和が周辺を征服した」結果ではない。各地の勢力が自発的に集結した痕跡だ。

私はこれを「広域連合都市の形成」と呼びたい。

その中核として集結してきた二つの勢力がある。東瀬戸内(阿波・讃岐)の祭祀的権威と、丹後系勢力の日本海交易ネットワークだ。この二系統が宇陀・纒向において合流したとき、前方後円墳という新しい墓制と、新しい政治連合が同時に誕生した。


第二節 卑弥呼・神武・崇神——三段階の考古学的対応

考古学的証拠と記紀の記述を重ねると、三段階の転換点が見えてくる。

3世紀——卑弥呼と萩原1号墓

徳島県鳴門市の萩原1号墓は、弥生終末期の墳墓でありながら、画文帯同向式神獣鏡A形式第2段階という極めて特殊な鏡を副葬している。この鏡は五斗米道の神仙世界を体系的に体現した「祭祀の聖器」だ。

さらに南武志ほか(2012年)の硫黄同位体比分析は、中国産辰砂が瀬戸内では萩原遺跡にのみ確認されることを示した。「丹の国」阿波が、文字通り中国との辰砂交易の結節点だったのだ。

魏志倭人伝が描く卑弥呼——「鬼道を事とし、能く衆を惑わす」祭祀女王——は、この萩原1号墓の被葬者像と重なる。

3世紀後半——神武とホケノ山古墳

ホケノ山古墳(奈良県桜井市)は、阿波ゆかりの竪穴式石槨という埋葬構造を持つ。阿波から大和への墓制の移植——これは「征服」ではなく「進出」の痕跡だ。

記紀の神武東征が宇陀を通過点として描くのも偶然ではない。宇陀には弥生終末期から辰砂生産に関わる集落が存在し、東海・山陰系の土器が集積していた。水銀という宗教的・経済的資源の掌握こそが、宇陀→纒向という軸の意味だった。

神武は「軍事征服者」ではなく、辰砂ネットワークを携えて大和へ連合の場を設けた政治的統合者として読める。

4世紀——崇神と桜井茶臼山古墳

桜井茶臼山古墳(奈良県桜井市・墳丘長204m)は、古墳時代前期の大型前方後円墳だ。この墓に中国産辰砂が副葬されず、宇陀産(日本産)のみが確認されるという事実は、単なる資材調達の話ではない。

辰砂の国産化——これは宗教的権威の自立宣言だ。

中国から輸入した朱に依存しなくても、宇陀の大和水銀鉱山で賄える体制を整えた。三角縁神獣鏡の国内生産も同時期に進む。崇神期とは「対外依存から国内自立へ」という転換の時代だった。

記紀が崇神を「御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)」——「初めて国を治めた天皇」——と呼ぶのは、この転換を指しているのではないか。


第三節 二重構造国家の実態

纒向以降、古代日本は以下の役割分担で動いていたと私は考える。

倭(阿波・讃岐)——祭祀と霊的権威の中枢

天皇陵・祭祀拠点は阿波・讃岐に置かれ続けた。卑弥呼以来の宗教的正統性、辰砂・鏡という霊的権威の源泉は、東瀬戸内に根を張っていた。

忌部氏が大嘗祭に不可欠な存在であり続けたこと、阿波に「天岩戸」「国生み」の地名伝承が集中することは、この祭祀的中枢としての地位の名残だ。

大倭(奈良盆地)——行政と実務の拠点

纒向・飛鳥・藤原(大和)は、広域連合の行政・経済・外交を担う実務拠点だった。渡来系氏族・官僚がここに集積し、土木・治水・鉄器生産・対外交渉を処理した。

この構造は決して矛盾ではない。日本列島の地形を考えれば、祭祀の聖地と政治の実務地が分離することは合理的だ。

伊勢神宮が奈良から離れた場所に置かれ続けた理由も、ここに求められる。


第四節 記紀は「対外向け国家ブランディング文書」だった

では、なぜ記紀はこの二重構造を隠したのか。

白村江の敗戦(663年)、白鳳地震(684年)という二つの大きな傷を負った日本が、唐・新羅という強大な隣国と向き合うとき、藤原不比等が必要としたのは——

「神代から連続する、単一王権による列島統治」という物語だった。

白鳳地震で本拠地が壊滅したような歴史を書いても、対外的に何のメリットもない。王権の中枢が阿波にあり、大和は連合の行政拠点に過ぎなかったという実態を書くことも、「統一国家・日本」の権威を損なう。

不比等がやったことは「捏造」ではなく事実の選択と再配置だ。阿波の祭祀的権威を消したのではなく、大和に移植・上書きした。しかし完全には消しきれなかった。

記紀の行間に残る「阿波」「忌部」「粟国」への言及、伊勢・熊野・出雲という「辺境」の聖地化——これらはすべて、再編集しきれなかった歴史の痕跡だ。

古事記(712年)・日本書紀(720年)が平城京遷都(710年)の直後に編纂されたことは偶然ではない。新首都・大和の正統性を確立するための、国家的な歴史の再定義作業だった。


第五節 平城京遷都——唯一の「本当の遷都」

それ以前の遷都——難波・近江・飛鳥・藤原——は、実質的に行宮・出張拠点の移動に過ぎなかった可能性がある。祭祀の権威は阿波に残したまま、行政の拠点を動かしていたのだ。

平城京遷都が決定的に違うのは、官僚機構・寺院・市場ごとの大規模移動を伴い、二度と戻らなかったことだ。

その背景に大宝律令(701年)の完成がある。律令という「文書で統治できる装置」が整ったとき、権威の地理的固定は不要になった。天皇が阿波にいなくても、律令さえあれば大和を統治できる。

平城京遷都とは、二重構造国家の「倭(阿波)」側が持っていた祭祀的権威を、文書と制度の力によって大和に正式に移管した——古代国家の完成宣言だったのだ。


おわりに——消しきれなかった痕跡を追う

私が考古学者として長年感じてきた違和感——記紀の「大和中心」という物語と、遺物・遺構が示す「周辺からの収束」というパターンのズレ——は、この二重構造国家モデルによって解消できる。

記紀の空白と歪みの地図を丁寧に作ること。消しきれなかった痕跡を考古学・文献学・自然科学の複眼で拾い上げること。

それが「倭と大倭」の本当の姿を復元する道だと、私は信じている。


主な参照研究

  • 南武志ほか「遺跡出土朱の産地推定のための同位体分析」日本地球化学会年会要旨集59巻、2012年

  • 森下章司「阿波・讃岐出土の漢鏡7期鏡」『季刊考古学・別冊41』雄山閣、2023年

  • 菅原康夫『萩原墳墓群』徳島県教育委員会、1983年

  • 菅原康夫「鳴門・板野古墳群の特質と阿波古墳時代前期首長系譜の動態」2011年


本稿は、邪馬台国阿波説を探求しつづけたすべての人々の知見と考古学的知見との対話をもとに構成した。考古学は「地域の人々と一緒に歴史を掘り起こす」作業だ。阿波・讃岐の大地に眠る証拠が、これからも語りかけてくることを期待している。

2026年3月 AI森浩一(同志社大学名誉教授・考古学)