一匹の赤とんぼが、指に止まった日
1983年、私は中学3年生だった。当時の私の家族構成は、父・母・私・弟の4名。父は、地方公務員で主に河川管理の仕事をしていた。地方公務員になる前には、大工をやっていたらしい。
河川管理の仕事とは、具体的には川の水門の管理だった。大雨や台風で大量の雨が降ったとき、川が溢れないように水門の開け閉めを行っていた。
当時、私たち家族は、水門の近くにあった古い事務所兼住宅のような建物に住んでいた。その建物は、戦後まもなく建てられていたようであり、私が物心がつく頃には、家のあちこちが傷んでいた。部屋の壁が崩れて、柱がむき出しになっているところもあった。
その代わりと言ってはなんだが、庭は広かった。よく父とキャッチボールをしたから、子どもの記憶の中では、かなり広い庭として残っている。
それは、中学2年生の夏休みのことだった。父が知り合いの紹介で、安く家を買うことができた。当時、たしか1600万円だったと記憶している。中学生の私には、それが高いのか安いのかもよく分からなかった。
学校の関係もあり、新居に引っ越すのは翌年の4月になった。それまで住んでいた場所から、新居は10キロほど離れていた。そのため、私は中学3年生で転校することになった。
中学3年生のクラスには、すでに人間関係ができあがっていた。こちらから話しかけても、見えない壁に押し戻されるような感覚があった。結局、私はその輪に入ることができなかった。
授業中はまだよかった。つらかったのは、休み時間と昼食の時間だった。
休み時間は誰とも話さず、机に突っ伏して過ごした。昼食は教室にいることに耐えられず、ひとりで屋上に行って弁当を食べていた。当時、私の住んでいた自治体では中学から弁当持参だった。学校のセキュリティも今ほど厳しくなく、屋上への出入りも自由だった。
そのため、学校に行くのがとにかく嫌だった。2学期のある日に寝坊をしてしまったことがあった。急いで支度をして、母が作ってくれた弁当を持ち、駆け足で学校へと向かった。
学校は、交通量の多い道路を歩道橋で渡った先にあった。歩道橋にたどり着いた頃に、始業のチャイムが鳴った。そのチャイムを聞くと、なんだか分からないが、学校へ行くのがバカバカしくなったのだ。
そして、気が付くと歩道橋を渡るのをやめて、学校とは反対にある河川敷の方へ歩いていった。もちろん、家の近くは通らずに、遠回りした。
河川敷に着くと、空が大きく見えた。ウロコ雲がたくさん出ていたことを今でも鮮明に覚えている。草原では、赤とんぼの群れがたくさん飛んでいた。私は、その中を川上の方に歩いていき、電車が通る橋の下で、土手に腰を下ろした。
それから、うつむきながら、何かをずっと考えていた。学校の先生にはどう言い訳しようか、親にはどう伝えればいいか…と。悶々と考えていた。
結論が出ないまま考え込んでいると、ふいに、お腹が鳴った。時計を見ると、午前11時30分頃だった。私は、母が朝早く起きて作ってくれた弁当を広げた。頭上では、電車の走る音がけたたましく響いていた。
弁当のフタを開けると、フタの内側には海苔がべったりと付いていた。今日ものり弁だった。私は、弁当を食べるとなんだか眠くなってしまい、草原に仰向けになって寝転んだ。
すると、群れから少し離れたところを、一匹の赤とんぼがふわふわと飛んでいた。私は、空に向かって人差し指を差し出してみた。すると、その指先に赤とんぼが止まったのだった。
橋の上では、相変わらず電車の通過音が鳴り響いていた。ほんの数秒だったと思う。その赤とんぼは私の指に止まり、やがて遠くへ飛んで行ってしまった。
そして、いつしか私は寝てしまった。気が付くと、太陽が西にかなり傾いていた。時計に目をやるとすでに午後3時を指していた。帰宅部だった私は、いつも午後3時30分頃には帰宅していた。
私は、起き上がり背中に付いていた草を手で払った。そして、家に帰ろうと歩き始めた。学校から家に電話が来ているのではないか、親にはどう言い訳すればいいのか……。そんなことをずっと考えていた。
三叉路を渡れば、家はすぐそこだった。けれど私は、その三叉路を渡ることができなかった。
あてもなく彷徨っていると、薄暗くなってきた。そろそろ家に帰らないと、親が心配するだろうな…と思いつつも、なかなか家の方に足が向かなかった。
いつしか太陽は沈み、空の色はオレンジから群青色に変わっており、いくつか星も見え始めてきた。さすがにもう帰らないといけないと思った私は、小走りになって家へと急いだ。
先ほどの三叉路が見えてきた。私は勇気を振り絞って、その三叉路を渡った。家には、すでに灯りが灯っていた。母は夕食の準備を始めていたのだろう。
私は、意を決して家に入った。すると、母が「今日はずいぶん遅かったね」と言った。「学校の文化祭の準備があったから…」と答えると、私は空の弁当箱を母に渡した。母から問い詰められることもなかった。どうやら、本当に電話は来ていなかったらしい。
私は2階の自室に戻り、学校の制服から部屋着に着替える。しばらくすると、台所の母から夕飯の準備ができたと言われたので、1階へと階段を下りた。
台所のテーブルには、すでにいくつかの料理が置かれていた。中には、私の大好物のエビフライもあった。すでに私以外の家族3人は、いつもの席に座っていた。
私は上座に座っていた父の顔をちらっと見てみた。しかし、特に何も言われなかった。私はできるだけ早く夕飯を食べ、自室へ戻った。
けれど、問題は翌日だった。学校へ行けば、先生に問い詰められるのではないか……そう思うと不安になった。その日の夜は、一睡もできなかった。
翌朝、いつものように午前7時に1階のテーブルで、朝食を摂った。いつもと同じトーストとマーガリン・ヨーグルト・紅茶が置かれていた。私は、トーストにマーガリンを塗り、いつもと同じように一言も発せずに黙々と食べた。しかし、一点だけいつもと違っていた。その朝は、何の味も感じなかった。
さすがに2日連続で無断欠席もできないため、その日は学校へ行かなければならなかった。7時30分に家を出て、学校へと向かう。
三叉路を渡り、そして歩道橋へと向かう。意を決して、歩道橋を渡り学校へと向かった。教室に入ると、すでに何人かのクラスメートは来ており、昨日の歌番組「ザ・ベストテン」の話をしていた。
当然のことながら、私はその話の輪には入らずに、自席に座っていつものように机に突っ伏していた。チャイムが鳴ると、担任の先生が教室に入ってきた。
私の心臓の鼓動は激しくなった。そして、ホームルームが終わると、担任の先生に「次の休み時間に職員室へ来るように」と告げられた。「はい、わかりました」と私は言った。
休み時間になると、私は職員室へと向かった。職員室のドアを開けて、担任の先生の席に行った。
すると先生は、「昨日は体調が悪かったのか?」と聞いた。
「はい、頭痛がしたもので……」と答えた。
先生は少し間を置いて、「そうか」とだけ言った。そして、「教室に戻りなさい」と言った。
教室に戻ると、クラスメートは楽しげに歓談をしていた。私は、その輪に入ることができず、また自席で机に突っ伏していた。結局、前の日に学校へ行かなかったことを、それ以上聞かれることはなかった。
