【連続小説】初恋の痛みが消えないまま俺はまた恋をする第113話-終業式〜紗霧
紗霧が貴志に願ったみっつのこと。
1つ目は強く抱きしめてキスをして欲しい。
いじめを受けて傷ついた心を、支えてくれる貴志。だけど紗霧は貴志に支えられたいわけじゃなかった。支え合える二人でいたい。
芽生えた想いを、言葉よりも強く伝え合うために。言葉を紡ぐべき場所で直接繋がって、想いを交換したかった。
2つ目はキスの後で笑って欲しい。
貴志の笑顔を見ると、明日もまだ頑張れそうだから。
長い長い口づけの後で、貴志は心からの笑顔を紗霧に見せてくれた。
大好きだよ…。だから私は、貴志くんとひとつになりたいんだ。
それが紗霧の3つ目の願いだった。
「みっつめのわがままを言うね」
紗霧はゆっくりと目を開けた。半身を起こしてキョロキョロと周囲を伺う。貴志がいない。
違う。もう…貴志はいないのだ。
あれから2年が過ぎた。貴志にみっつめの願いを告げてから。貴志がそれを叶えてくれてから。
手首の傷が疼いて、紗霧は顔をしかめた。そっと腹部をさする。無数の傷痕が走る腹部を。
痛い。自ら切りつけた傷痕が痛むのではない。心が痛むのだ。胸に手を置くと弱々しくも鼓動を感じる。
貴志のいない世界で、それでも紗霧は生きている。まだ、生きている。
今朝も目が覚めてしまった。悪夢ではなく、あの幸せだった日々の夢だったから、今日は少しくらいマシな1日かも知れない。
紗霧は机に向かうと、1時間の自己学習を始めた。貴志と付き合う前からずっと続けている習慣だ。
貴志に出会う前も、貴志を知ってからも、貴志に想いを抱いてからもずっと続けてきた。
貴志と結ばれたあの日すら。
数学の参考書を開き、スラスラと問題を解き進める。朝の学習は数学が良いのだと、貴志が教えてくれた。
貴志のそばからいなくなった今でも、紗霧の朝は数学で始まる。数式の織りなす世界の中で貴志に会えるような気がしたから。
1時間が過ぎ、きりのいいところで紗霧は手を止めた。集中から解放された心をあの日へと向かわせる。
今日は一学期の終業式だ。あの日からちょうど2年が経っていた。
「私は貴志くんとひとつになりたい」
貴志は驚いた顔をして、しばらく固まった後に、静かに首を横にふった。
「それはダメだよ」
紗霧を大切にしたい。その意思すら飲み込もうとする欲望の奔流。今は抑えられていても、一度「経験」してしまえば、その欲に抗える自信がなかった。それに最初は痛みを伴うとも聞いている。紗霧の将来を奪ってしまうリスクだって。
今でこそ考えて拒む余裕はあるけれど。一旦その雰囲気に飲まれてしまえば、きっと何度だって紗霧を求めてしまうだろう。
いじめで傷ついている紗霧を、貴志は自分の欲望で傷つけたくないと思った。
だけど紗霧は引かない。引くくらいなら最初から求めたりしない。紗霧だって怖いのだ。痛みを伴うと言われても、どんな痛みで、どの程度の痛みなのか、経験するまで知りようがない。
貴志がどんな風に豹変するのかもわからない。それにもし、もしもの事が起これば貴志の夢を奪ってしまうかも知れない。
だけどこのままずっと貴志と一緒にいたいと望むなら、その日はいつか来てしまうのだ。
どうせその日を迎えるならば、お互いを心の底から必要として、心の底からお互いを離したくないと思える時に迎えたかった。
何でもない日の、よくわからない勢いでその壁を越えるくらいなら、絶対に心に刻み込める今が良い。
貴志にそばにいて欲しい。言葉よりも、抱擁よりも口づけよりも、もっとそばに。もっと近くにいて欲しい。
空気すら邪魔だ。服の1枚すら邪魔だ。この世で貴志と自分を隔てるもの全てが邪魔に感じてしまうくらいに、紗霧は貴志を近くに感じていたかった。
いじめで世界が暗闇に閉ざされたような気持ちに陥った。そんな紗霧を照らしてくれる光。貴志は紗霧にとって人生を照らしてくれる光だった。
自分も貴志にとってそうでありたい。
貴志も紗霧を離すまいと強く抱きしめてくれた。
今以上に「初めて」を心に刻み込めるその日は、この先きっと来ないだろう。
そもそも今以上に辛くて、貴志に支えてもらわないと自分を保てない時なんて、そうそうあってたまるものか。いや、絶対に嫌だ。
紗霧は覚悟を込めた瞳で貴志をまっすぐに見つめている。貴志は何度も深呼吸しながらその瞳を受け止めた。
紗霧から目をそらさずに、貴志は心の中にいる「男の子」を抑え鎮めていった。
紗霧と「その時」を迎えるならば、その時は劣情に身を任せてはいけない。
「いつか俺たちがひとになる事が日常になる時がくるかも知れない。
今の気持ちで初めてを迎えてしまったら、紗霧は日常の中に、辛い記憶を思い出してしまうかも知れない」
訥々と紡ぎ出される貴志の言葉に、紗霧は迷いなく頷いた。
「だからだよ」
紗霧は貴志を抱きしめる手に力を込めた。貴志の胸に頬を埋める。貴志の心地よい心音が紗霧の鼓動と同期していった。
それはお互いの心が同じリズムを刻んで、人生の旋律が紡がれていく瞬間のように感じた。
「私は今の苦しさ、辛さを忘れたくない。この悔しい気持ちも忘れたくない。
だってそれは、貴志くんを好きになった結果だから。
笑って過ごしてきた喜びも、悲しくて泣いた痛みも、全部貴志くんを好きになった証だと思うから」
貴志の心音が跳ね上がる。早鐘を打つように早まる貴志の心音に合わせて、紗霧の心も高まっていく。
「今感じてる心の痛みと一緒に…。
初めての体の痛みも一緒に、心に刻みこんで欲しいんだ。貴志くんに」
貴志も紗霧を抱きしめる手に力を込めた。そして静かに頷いた。
貴志の胸にうずもれた紗霧からはその姿は見えない。だけど確かに感じる。貴志の首が縦に揺れたのを。
「ありがとう…」
二人は手をつないで、緑地公園のベンチに腰掛けた。ゆっくりと時間をかけて話し合う。
そして終業式のあと、学校でいじめの顛末について面談が行われるまでの間を、二人で過ごすことに決めた。
紗霧は両親に、面談は貴志と一緒に向かうことを伝えた。紗霧の両親は神妙な面持ちで頷いて、学校での合流に合意した。
貴志は面談前に紗霧の夕食も準備する旨を母に伝えた。その日は父も合流するらしい。
母は父を迎えに行くために、先に家を出るそうだ。
学校までは貴志と紗霧が二人で向かうことになった。
北村早貴は全てを察したようにため息をつくと、その時の注意点を貴志に告げた。
顔を真っ赤にして否定する息子は、やはり嘘が苦手らしい。
本当は叱らないといけないんだけど…。
早貴は自室に戻ると、再び大きなため息をついた。
終業式を終えて、貴志と紗霧はその時を迎えた。
不思議な感覚だった。まるで生まれる前からひとつの存在だったようにお互いが近くに感じる。
二人は物心ついてからの思い出をお互いに語り合った。お互いの全てが知りたくて、話し始めたら止まらなくて。
それは2人の人生を縫い合わせているような時間だった。
何度もお互いを求め合いながら、そのたびにお互いの心を開示して。
何度も。何度も。いつまでも。
「ねえ紗霧」
「ねえ貴志くん」
二人の声が重なった。同時に「ふふ」と笑みをこぼして言葉を続けた。
「俺を」
「私を」
再び重なる声。一瞬のズレもなく言葉が紡がれていく。
「好きになってくれてありがとう」
あの日、言葉だけではなく心も確かに重なっていたと思う。それは2年が過ぎた今でも同じ。
あの日紗霧は貴志とひとつになれた。
それなのに…。
紗霧は疼く傷痕を、忌々しげに撫でた。
生まれてきて良かった。生きてきて良かった。これからも貴志と生きていきたい。
心も体も満たされて、紗霧という存在の全てが肯定されているような気持ちになれた。
それなのに…。
女性としての体を持って生まれたことが、あんなにも幸せな瞬間を与えてくれるとは思わなかった。経験して初めて知った喜び。
それなのに…。
紗霧は自身の腹部に無数の傷痕を刻んでいた。
手首の傷も疼き始める。
紗霧は全てを失った。失ってしまった。
貴志との日々を反芻しては涙を流す日々を迎えてしまった。
スマートフォンをそっと立ち上げる。そこには修学旅行中に送られてきた、貴志からの最後のメッセージが綴られていた。いまだに返事のできない最後の言葉が。
「俺は紗霧の事を忘れる努力をするよ。あの時出来なかった、ちゃんとしたお別れをしよう。 ありがとう、紗霧。紗霧を好きになって、幸せだったよ」
あの時。貴志と会った最後の日。紗霧は貴志に「さようなら」を伝えられなかった。
貴志を好きになって、本当に幸せな日々を過ごしてきたのに。今でも貴志のことが好きで好きで仕方がないのに。
夏休みが終われば訪れるはずだった平穏な日々を、紗霧が迎えることはなかった。
二学期に紗霧が学校を訪れることは無かったのだから。
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物書きとして人生を歩めたら・・・。
その一歩を踏み出せる評価として心から感謝申し上げます。