手を引いてくれた君へ。
『娘をよろしくね』
あの日、私はひとりの少年に娘を託した。
まさかその言葉が、こんなにも温かい思い出になるなんて、その時の私は知らなかった。
娘が空手を始めた日のことを、今でも覚えている。まだ他県から転校してきたばかりで、習い事の見学に来たあの日。
知らない場所。
知らない人。
緊張でいっぱいだった小さな背中。
そんな娘の手を、そっと引いてくれた一人の男の子がいた。
今思えば、たまたま同じ小学校でクラスが一緒のこの男の子に私もすがるような思いだった。
『まだ知り合いもいないし、全然わからないの。娘ちゃんに教えてあげてほしい。』
男の子は弾けるような笑顔で、全身で応えて娘の手を『こっちだよ!』って引っ張っていってくれた。
それからは、お互いがいるから、苦しい練習にも楽しく耐える事ができる、そんな風な関係だった。
『今日は練習あるよ!必ず来てね!!』
いつも声をかけてくれてまだ馴染まない娘を鼓舞してくれた。
時には二人でおしゃべりをして怒られる時は、いつも男の子の方だった。それでもそれを悪く言う事もなく、面倒見がいいとはこの事を言うのか、という感じだった。
『◯◯ちゃん、空手でいろんな大会とか出て二人であちこち行けるようになろう。そうしたら、僕が教えるから、朝まで練習をしよう!』
そのまっすぐな瞳と言葉に、私は子どもの持つ優しさの大きさを感じて胸がいっぱいになった。
娘は空手という厳しいルールと勝負の世界に飛び込む時に最高の友人を得たのだ。
空手で一緒に汗を流すから、クラスでも仲が良いく、私にもよく声をかけてもらった。
あれから4年。
娘にもその男の子にも思春期が来て、少し付き合う友達も変わった。
もう、娘はその子がいるとかいないとかではなく、自分で空手の練習に行けるようになった。皆んなと友達になれた。ずっとこれが続くのかと思っていた。
『僕ね、空手やめるんだ。今ね、仲のいい友達と一緒に野球をやっているんだ。だから、今日で最後なんだ。』
突然、小学校に娘を迎えに行った出会い頭に男の子が言った。
私は、色々な気持ちが一度に押し寄せてきたけど、ぐっとこらえて、
『そうなんだ。わかったよ。野球頑張ってね。空手は逃げないから。』
って笑顔で言うのが精一杯だった。
でも、家に帰ってきたらなんとも言えない気持ちになって涙が溢れた。
私は律儀に挨拶をしにきてくれた彼に一言もお礼を言う事ができなかったし、なんだか一時代終わったような孤独さえ感じた。
娘の方はあっけらかんとしていて、
『別に野球やるんだったら、それでいいじゃない。』
という感じだった。
二人の関係性に少し変化があったのもあったと思う。でも、二人ともまだ幼かったあの頃からしたら、自分一人で選び取っていける大人への一歩をちゃんと踏み出して行っているのだ。
『あの時、彼がいたからここまで頑張れたよ。その恩だけは忘れないでね。』
私は娘に伝えた。
あっけらかんとしている娘とは対照的に私はぐしょぐしょに泣いていた。
あの二人で手を繋いで厳しい練習の中に入っていく後ろ姿はあの時だけの輝きだったのだ。
彼がいたから、娘は空手の楽しみや喜びを自然と受け取る事が出来た。それって、ある意味奇跡みたいな美しい出来事なんじゃないかと思う。
あの日、娘の手を引いてくれた小さな背中は、もう見えない場所へ進んでいく。
でも、あの時もらった優しさは、娘の中にも、私の中にもずっと残り続けると思う。
男の子君へ。
『娘の本当に心細かった時の最初の一歩を、一緒に歩いてくれて、本当にありがとう。』
