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菜の花と桜の森🌸権現堂桜まつり速報

毎年、行ってみたいと思いつつ季節が過ぎ、ああ、来年こそは行きたい、と翌年に想いを託してきた場所、幸手の権現堂堤。

とうとう行ってきました!

もらってきたチラシ(表)
もらってきたチラシ(裏)

さて、電車でいくか車でいくか。

幸手駅から権現堤までのバスは、週末だと直行便のピストン輸送をしているようですが、平日は、1時間に1-2本しかないようなので、車で行くことにしました。

「幸手市北公民館」をカーナビに入れて、近辺に到着したのは12時頃。
すでに道路は駐車場難民の車で渋滞していました。P1、2、3、4と満車で、ようやくP7で駐車することができました。駐車料金は1000円です。
車両通行止めの橋があったり、桜まつり期間中は駐車場への右折入場ができなかったりと、なかなかに難易度が高かったです。
次は電車でいこうと思います。

P7駐車場近くにはトイレやデイキャンプ施設があり、バーベキューのいい匂いが立ち込めていました。
今日はバーベキューに最高の日ですね。

川沿いの桜並木は満開で、権現堂堤に至る前からお花見さんぽができました。

調整池の御幸湖に噴水が見えましたが、すぐに終わってしまいました。
桜まつり期間中は30分おきに噴水があがります。

大きな道路に突き当たると、右に誘導する看板があり、素直に右に進みましたが、左に進んで橋を渡る人も多かったです。

権現堂桜堤に到着すると、堤の両側に満開の桜が並んでいました。
なるほど、これは人為的に作られた地形です。

権現堂桜堤(ごんげんどうさくらづつみ)は、戦国時代(1576年頃)に利根川の洪水から周辺と江戸を守るために築かれた堤防が由来だそうです。
かつて付近に熊野・若宮・白山の三社(権現社)が祀られていて、「権現堂村」と呼ばれていたのだそうです。
権現堂という名前がついているから、お社があるのかと思っていましたが、三社は現在は主に周辺の神社へ合祀されたそうです。

明治天皇が立ち寄ったそうで、行幸堤と呼ばれるようになり、その後大正時代に約6kmにわたり3,000本の桜が植えられました。現在は約1,000本のソメイヨシノが約1kmにわたって続いています。


入口。映り込んだ人たちはgeminiちゃんに消してもらいました。
途中でヤギに会えます。
かわいい💖

堤沿いの桜並木だけでも綺麗なのですが、しばらく進むと黄色い海のようないちめんの菜の花畑がありました。

いちめんの菜の花

そして青空の下の菜の花と桜並木のコントラスト。これが見たかったのです。

どっかーん
ひゃあーっ
きれーい!



われわれもレジャーシートを広げて、持ってきた紅茶を飲んだり、お昼寝をしたりしてのんびり過ごしました。

さあ、そろそろ帰りましょう
清保堂 かつて熊野山正智院を開山した清保善士がここに葬られているそうです。
清保堂

清保堂や幸手宿について記載された資料をみつけました。

https://www.city.satte.lg.jp/material/files/group/23/1.pdf

巡礼の碑

何やら堤の一画に石碑が置かれ、そこに座って酒を飲んだりしている人たちがいました。
石碑の説明を読んで見ると・・・

ヒーっ!やっぱり出たよ、人柱の話・・・そうじゃないかと思ったんだよね・・・。

決壊した利根川で土手が壊れ、激しい濁流で工事を進めることができなかったところ、「たまたま」そこを通りがかった巡礼親子が「自ら人柱を申し出」逆巻く流れに身を投じたところ、たちまち洪水がおさまった、とあります。

人柱の話が出るたびに、自ら申し出るわけないじゃん、と思います。しかも子供まで一緒に身を投げるなんて、ありえません。
「人夫たちが親子を川に投げ込んでしまった」とも書いてあるので、こっちが正解だよね、と相棒とうなずき合いました。ああ、怖かった。

我々は手を合わせてその場をそっと離れました。

もともとここに堤が作られた理由も洪水被害が大きかったせいなのだとわかるエピソードでした。


地図を見ると、上の利根川が氾濫すると権現堂方面に水が押し寄せ、手前の細い中川と合流して洪水被害が出たのだろう、と推察できます。権現堂堤はちょうどその合流地点と思われる場所に対して築かれています。
昔から日本の人々は治水で苦労していたのですね。

もしかして、家康の利根川水路変更事業と関係があるかもしれない、と思い、Gemini ちゃんに聞いて見ました。

Gemini ちゃん回答;

「徳川家康が江戸に入府してから行われた「利根川の東遷(とうせん)」は、日本の土木史上でも最大級のプロジェクトであり、現在の埼玉県や千葉県の河川地形を決定づけました。

ご質問の各要素の関係性を整理して解説します。

1. 徳川家康と「利根川の東遷」

家康が江戸幕府を開く際、最大の課題は**「江戸を水害から守ること」「物流網の整備」でした。 もともと利根川は、現在の荒川に近いルートを通って江戸湾(東京湾)**に流れ込んでいました。これを東へ東へと曲げ、最終的に銚子(太平洋)へ流すようにしたのが「利根川の東遷」です。

この事業により、江戸は大規模な洪水から守られ、同時に東北地方と江戸を繋ぐ内陸水運ルート(物流のメインストリート)が確保されました。


2. 権現堂川・利根川・中川の関係

この水路変更の過程で、非常に重要な役割を果たしたのが**権現堂川(ごんげんどうがわ)**です。かつての利根川の本流: 東遷事業の初期段階では、利根川の水は「権現堂川」を経由して、現在の「中川」へと流れ込んでいました。つまり、**権現堂川はかつての利根川の「本流」**の一部だったのです。
物流の拠点: 利根川(権現堂川)を下ってきた船は、幸手付近で中川へと入り、そのまま江戸へと向かいました。これにより、権現堂川周辺は水運の要衝として非常に栄えました。
現在の姿: その後、さらに東への切り替えが進み、利根川の本流が現在のルート(芽吹大橋方面)に移ると、権現堂川は役目を終えていきました。現在は大半が埋め立てられ、「行幸湖(みゆきだ)」などの調節池としてその姿を留めています。

3. 権現堂堤(ごんげんどうつつみ)の役割

権現堂堤は、この「かつての利根川(権現堂川)」の氾濫を防ぐために築かれた巨大な堤防です。江戸を守る防波堤: ここが決壊すると、濁流は一気に中川を伝って江戸の市街地まで到達してしまいます。そのため、幕府はこの堤を「日光街道」の一部としても活用し、常に強固に維持・管理しました。
水害の歴史と桜: 非常に水害が多い場所でもあり、何度も決壊と修復を繰り返してきました。現在、私たちが目にする美しい桜並木は、明治時代以降に堤防の補強と景観維持のために植えられたものが始まりです。

まとめ:関係性の図解徳川家康が、江戸の安全と物流のために利根川の東遷を開始。
その過程で、利根川の水を権現堂川に流し、中川を通じて江戸へ繋ぐルートが完成。
この激流から周辺地域と江戸を守るために築かれたのが権現堂堤
後に利根川がさらに東へ移ったため、権現堂川は本流としての役目を終えた。


歴史的な土木事業の跡地が、現在は関東屈指の桜の名所として親しまれているのは、非常に興味深い変遷ですね。」

思った通り、利根川の水を権現堂川に流し、中川を通じて江戸へ繋ぐルートだったのですね。その合流地点の氾濫対策で、権現堂堤は江戸時代にも整備が進んだのでしょう。
1キロにも渡る大規模な堤が作られた理由が、これでわかりました。

ああ、綺麗
今は洪水もなく穏やかな風景。
治水の歴史を知った後では、ひときわ美しく見えます。
フォトスポットが点在しています
帰りはちょうど噴水が上がっていました。
ウォーキングマップがありました。

次回は南栗橋駅から権現堤を通って幸手駅まで歩くのもよいかもしれません。

桜祭りは12日までだそうです。

屋台がたくさん並び、とても賑やかでした。
桜はみっちりと満開で、樹齢差からか、散り始めの桜の木もありました。風に舞う桜吹雪と、満開の桜が見れるベストタイミングでした。

今日から数日間は、まだまだ見頃だと思います。

行くのは大変でしたが、来年はウォーキングも兼ねて、電車で最寄り駅まで来てあるいてみたいと思います。


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