【幕末】第17話 鳥羽・伏見の戦い
⚪︎はじめに
戊辰戦争の火蓋が切って落とされ、新政府軍に奮闘する幕府軍。
苦戦を強いられるも徳川慶喜がいる。
慶喜「たとえ万騎戦没して一騎となるとも
大阪城を枕に戦え
大阪城破れるとも江戸城あり
江戸城破れるとも水戸城あり
断じて中途とにして止むべからず」
慶喜の言葉に皆動かされる。
彼がいればこの戦にも勝てる。
皆そう信じていた、、、、、
少し時間を巻き戻します。
今回は戊辰戦争の開幕試合とも言える鳥羽•伏見の戦いを見ていきましょう。
⚪︎武士の世から王政へ

少し復習しておきましょう。
徳川慶喜によって大政奉還が行われ、幕府は政権を失い、武士の時代は終焉を迎えました。
そして政権が還ってきた朝廷による政治の時代、王政の時代が始まるかと思えば、政治に関するノウハウも知識もない朝廷は再び慶喜に政治を頼ることになってしまいました。

そこで新政府軍は王政復古の大号令を発令し徳川慶喜に新政府への不参加と辞官納地を言い渡しました。
⚪︎新政府の策略
辞官納地とは官位を辞めて、土地を納めることです。
徳川慶喜は政権こそ返還したものの内大臣という官職は保有しており、土地に関しても広大な土地を持っていました。
新政府はここに目をつけて官位と土地の返上を求めたのです。もし、慶喜が返上したら幕府勢力は力を大幅に失いますし、拒否した場合はそのことを理由に戦いを仕掛けられると考えたのです。
⚪︎新政府&旧幕府の内情

新政府では2つの派閥が生まれていました。
1つ目は過激派です。
薩摩藩や長州藩などがこの派閥であり、幕府と戦をして討幕することを常に狙っていました。
2つ目は穏健派です。
土佐藩や越前藩、尾張藩がこちらに属していました。徳川慶喜を新政府に加入させようとはたらいていました。
※土佐藩の板垣退助など一部は過激派でした。
また、幕府でも同じく派閥が生まれていました。
過激派には会津藩、桑名藩。
穏健派には徳川慶喜が属していました。
⚪︎徳川慶喜新政府加入なるか!?
過激派を抱き抱える徳川慶喜はこのままでは過激派が新政府に攻撃を仕掛けてしまうと考えて一旦京都から距離を取るために幕府軍を大阪城に連れ帰りました。
その後、新政府内での穏健派のはたらきかけがうまくいき、徳川慶喜が新政府に加入する話が進んで行きました。
過激派の西郷隆盛さえも「今は幕府と争うべきではない」そう考えていました。
⚪︎薩摩藩邸焼き討ち

この平和でうまくいきそうな状況を打ち壊す事件が発生します。
薩摩藩邸焼き討ちです。
江戸に駐在している薩摩藩士が旧幕府を挑発したところ、その挑発に乗った旧幕府の庄内藩が薩摩藩邸を焼き討ちにしてしまったのです。
この一件は大阪城にいた旧幕府軍の耳に届き、ついに過激派への抑えが効かなくなってしまうのです。
⚪︎鳥羽•伏見の戦い
抑えが効かなくなった旧幕府軍の過激派は1万5千人の兵を連れてついに出陣してしまうのです。
これを知った新政府軍は5千人の兵を出陣させて鳥羽街道と伏見街道を封鎖しました。
こうして、鳥羽街道、伏見街道で対峙した旧幕府軍と新政府軍。
鳥羽街道にて旧幕府軍は新政府軍の封鎖に対して強行突破を開始。
新政府軍は強行な姿勢の旧幕府軍に対して発砲を開始。
ここに戦いの火蓋が切って落とされたのです。
1868年 鳥羽•伏見の戦い 開始

鳥羽街道で急遽発砲された旧幕府軍は混乱し、苦戦を強いられました。
伏見街道でも発砲音を聞いて争いが始まったと確信してこちらでも戦闘開始。

戦には土佐藩も出陣していましたが土佐藩には旧幕府軍と争う意思がなく、対峙しても攻めてこなかったため旧幕府軍は無視して竹田街道北上し始めます。
京都に登ることを考えたら竹田街道を北上し続けることが1番の近道でした。
しかし、旧幕府軍の指揮官は実践経験が乏しくその事実を見抜くことができませんでした。
そのため指示を出せず軍を敷いていた旧伏見奉行所は新政府軍に攻められ炎上してしまい、旧幕府軍は伏見からの撤退を始めました。
相手がいなくなった伏見で戦っていた新政府軍は鳥羽街道の旧幕府軍を側面から攻撃。
急に側面から攻撃されたため崩壊し、撤退せざるを得ませんでした。
この状況で戦場には錦の御旗が翻ります。
錦の御旗とは天皇の旗。
すなわち新政府軍は天皇の指揮する軍(官軍)であり、その軍にたてついた旧幕府軍は朝敵ということを意味しました。

その後旧幕府軍は淀城にて立て直しを図ろうとするもの淀城の扉は開いてもらえず、撤退を続行。

途中で立ち止まって、迎え撃とうとするも津藩が新政府に味方したため敗北。

旧幕府軍は敗北を重ね、大阪城まで撤退してしまいます。
⚪︎最後の将軍「徳川慶喜」

撤退してきた旧幕府軍を大阪城では徳川慶喜が待機していました。
徳川慶喜は自ら出陣すると発言。
そして、熱い演説を行いました。
たとえ万騎戦没して一騎となるとも
大阪城を枕に戦え
大阪城破れるとも江戸城あり
江戸城破れるとも水戸城あり
断じて中途とにして止むべからず
大阪城で負けても、次は江戸城がある。
江戸城で負けても水戸城がある。
絶対に戦うことをやめてはならない!
そう言い放ったのです。
この言葉に旧幕府軍は士気を高めて、息を吹き返しました。
⚪︎白旗を揚げる将軍
しかし、その演説の日の深夜。
徳川慶喜は会津藩主である松平容保と桑名藩主松平定敬を連れて密かに大阪城を抜け出して江戸城へと退却してしまったのです。

慶喜の敵前逃亡に大阪城は大混乱に陥ります。
将軍を失った大阪城の旧幕府軍は散り散りとなり、大阪城は新政府軍の手に落ちてしまいます。
その頃、慶喜は降参の意を示し、上野の寛永寺にて謹慎生活を始めてしまうのです。

こうして鳥羽•伏見の戦いは終了。
戊辰戦争最初の戦は新政府軍の圧勝に終わるのでした。
⚪︎おわりに
鳥羽•伏見の戦いに勝利した新政府軍。
優勢と考えて今まで中立に立っていた人々は新政府軍に味方していきます。
ここから戦場は江戸へと移っていきます。
次回は江戸無血開城について見ていこうと思います。
お楽しみに!!
