研究者失格の烙印から這い上がった7ヶ月: 米国カリフォルニア大学留学記


はじめに

産業技術総合研究所(産総研) 人工知能研究センター 片岡 裕雄(Hirokatsu Kataoka)です。「研究留学アドベントカレンダー2025」において、前回は独国ミュンヘン → 英国オックスフォードと12年の時を超えて人脈が繋がる様子、そして若手育成に貢献するプロジェクトを開始したという私の実話をベースに寄稿させて頂きました [Link]。

実は、ドイツ研究留学が初めての研究留学ではなく、その前の2011年に研究者になる原点となった経験である米国留学時代を振り返ってみます。部分的には出しているものの、まとまった記事として書いたことはないのでこの場で初めて語られる「エピソードゼロ」的なイメージで書いてみようと思います。

さて、私が博士課程に進学した2011年から2012年にかけて米国カリフォルニア大学リバーサイド校(UC Riverside)[Link] に研究留学した経験は、試行錯誤と悪戦苦闘の連続でした。まともに論文も読めない、書けない、研究テーマも立てられない、実装力も皆無、おまけに英語力ゼロの状態からのスタートでした。修士課程在学当時、企業の就職活動で全滅し「研究者失格」の烙印を押された状況から、文字通り生活を懸けて渡米し、自分の壁を越える挑戦をしました。どん底から這い上がる過程で研究者としての基礎を身につけ、自信を培うことができました。この原点とも言える体験があったからこそ、2025年現在では研究者として国際連携チームをリードして研究に打ち込めているのかもしれません。

本記事では主に、

  • 博士課程進学までの道のり(企業就職全滅から博士進学を決意するまで)、

  • 米国留学での悪戦苦闘の日々(英語の壁と研究漬けの毎日)、

についてお話しします。

就職活動で一度ボッキリと折られた心を奮い立たせ、研究者を目指し再起する研究留学物語となっています。私のように、最初は凡人以下の能力でもなんとかもがき苦しんでやっと世界の中でスタートラインに立つためのひとつの参考としてもらえたら幸いです。それでは、本編いきましょう。

博士課程進学まで

まずは私が博士課程に進むまでの経緯をお話しします。実は、もともと博士課程に進学するつもりは全くありませんでした。修士課程修了後は企業の研究所に就職しようと考え、就職活動では複数の企業研究所を受けたのですが、結果はことごとく不採用(下記参照)。

今みたいにAIブームの最中ではなく、2008年に端を発するリーマン・ショックの影響を引き摺る不況、就職活動でも求人数が少ない状態でした。その上、「コンピュータビジョンは信用ならない」と言われるなど、社会実装についても産業界がまだまだ疑いの目を持っていた時期でもあります。新人のコンピュータビジョン研究者は採用しても各社1人、多くても数人だったのではないかと思います。

そのような流れの中で、私のような弱小大学院生に当然チャンスはありません。志望していた研究所(6社7研究所)に全滅してしまい、先のポストの通り「研究する資格なし」と烙印を押されたような気分になりました。研究所見学会でも隣に座る学生さんが、先輩社員から手招きされて、部長や人事幹部と思われる方に紹介される様子をまざまざと見せつけられて、とても悔しい思いでいっぱいでした。辛うじて内定を頂いた一社も面談時に「君の育成プランには研究者という選択肢はない」と言われてしまい、愕然としたのを覚えています。

目の前が真っ暗になりましたが、この出来事が転機となり、「それでも研究者になる道を諦めたくない」と強く思うようになりました。結局、その内々定は8月に辞退し、進路を大きく切り替えて博士課程に進学する決意を固めました。すると運良く、内定辞退から約1週間後に大学からリサーチアシスタント(RA)募集の公募情報が飛び込んできました。これは博士課程学生として採用されるRAポジションで、「渡りに船」とばかりに応募。幸いにも選考を通過し、博士課程進学への道が開けました。

ところが、その後に待ち受けていた博士課程入試の面接は、今でも冷や汗ものの経験でした。大学院教授陣を前に、まず5分間の研究計画プレゼンテーションを行い、その後の質疑応答に臨みました。緊張していたというわけではなかったのですが、鋭い質問、本質を問い正す質問に全然うまく答えられません。専門知識を突っ込まれて沈黙してしまったり、的外れな返答をしてしまったりと散々でした。約30分の質疑の体感では、自分が喋っていたのはわずか2〜3分、残りの大半(ほぼ27分!)は教授陣が私の至らない答えについて議論しているような状況でした。「絶対落ちた…」と面接後は肩を落としました。ところが結果は合格。合格通知を受け取ったときは本当に驚きました。教授方のご厚意かポテンシャルを汲んでいただけたのか、真相は分かりませんが、ともかく私はこうして博士課程への切符を手に入れたのです。

そして2011年4月、慶應義塾大学の博士後期課程へ進学し、新たな挑戦が始まりました。

生活を掛けて研究者としての能力を引き出す | カリフォルニア大学への渡米

博士課程進学が決まったものの、私はさらなる勝負に出ることにしました。それが米国への研究留学です。先のリサーチアシスタントのプログラムはグローバルCOE [Link]と呼ばれるプロジェクトで、国際化がメインの目的のひとつでした。その中のひとつに留学プログラムがあると聞き、ぜひこれに乗じて海外留学経験を積んでいきたいと思ったものでした。

幸い慶應大学内で恵まれたご縁があり、指導教員の青木義満先生 [Link]と相談したところ、慶應大学内で海外とのコネクションを多くお持ちの斎藤英雄先生 [Link]にアプローチしてもらいました。「せっかくプログラムがあるのだから、海外で揉まれてみてはどうか」とのご助言をいただきました。斎藤先生のご紹介で、カリフォルニア大学リバーサイド校(University of California, Riverside)のBir Bhanu [Link] を受け入れ先として紹介いただけることになりました。Bir Bhanu はコンピュータビジョン分野、特にバイオメトリクスの権威であり、同大学のVISLab(Visualization and Intelligent Laboratory)を主宰している先生です。研究テーマの整合性も踏まえ、青木先生・斎藤先生と相談しつつ受け入れ先を正式に決定しました。

しかし、ここからが本当に大変で途方も無い研究者への道のりのスタートでした。私は当時、英語力に大きな課題があり、TOEICは400点台と決して留学に胸を張れるレベルではありませんでした(学部時代は200点台とベースも絶望的です)。当然ながら英文の書類を読むのも一苦労で、他の慶應大学のリサーチアシスタントと比較しても圧倒的に能力が低い状態でした。渡米に必要なビザ申請書類や大学からの受入許可関連の書類が次々と届きましたが、その英文を理解するだけで人の数倍の時間がかかりました。一文一文辞書を引き、内容を咀嚼し、確認のメールを書いて反応を待ち続ける… そんな作業に追われ、ビザ取得の準備だけで数ヶ月が過ぎていきました。研究留学の計画を立て始めたのが博士課程進学後すぐ(4月頃)だったのに対し、ビザを実際に取得できたのは当初予定より2ヶ月遅れのことでした。

米国ビザの申請で手一杯であり、研究の進捗が滞る日々でした。グローバルCOEのミーティングでも、さすがに斎藤先生から「博士課程の学生が数ヶ月も何も成果を出せないなんてあり得ないよ」と厳しい叱咤を受けました。当時の自分には返す言葉もありません(しかも超が付くほど苦手な英語です)。書類対応に手一杯で研究は全く進んでいなかったのですから…。一方研究室内では青木先生が「焦らずに頑張ろう」と特に咎めることもなく静観してくださいました。このエピソードからも分かる通り、お二人の指導スタイルは対照的です。斎藤先生は愛のある激励で背中を押してくださる熱血タイプ、青木先生はおおらかに見守って自主性に任せてくださるタイプでした。結果的に、斎藤先生の叱咤も青木先生の包容力もどちらもありがたく、私はなんとかビザ取得という渡米に向けた第一関門を突破することができました。

こうして2011年8月、意を決してアメリカへと旅立ったのです。ロサンゼルス国際空港に降り立ち、空港近くで一泊してからタクシーでリバーサイドまで移動しました。数日はアパートの契約や自転車など、生活周りの準備をして過ごしました。

数日後にカリフォルニア大学リバーサイド校 VISLab に初めて足を踏み入れた私は、すぐに言葉の壁の厚さを思い知らされることになります。研究室に到着してから最初の30分間、研究室のスタッフや学生たちと自己紹介を兼ねた雑談を試みたものの、私の拙い英語は全く通じず、相手が何を言っているか、も半分も聞き取れませんでした。同時に私も自分が何を言っているかわかりませんでした。緊張と言語障害で頭が混乱する中、ラボのアシスタントらしき方から言い渡された初めての仕事は、「そこにある机を片付けて使ってくれ」という一言でした。指さす先を見ると、ホコリだらけの机の上に山積みになった書籍と論文の山…。どうやら以前の学生が置いていった資料の残骸のようでした。言われるがまま雑然とした机を掃除し、自分の作業スペースを確保しました。歓迎ムードなど皆無です。研究室の教授は当然多忙で普段の運営はスタッフに任されていたこともあり、遠路はるばる来た日本人留学生であっても特別扱いは一切なし。「ここでは一研究員として自力で頑張るしかない」という現実を、初日から突きつけられた形です。

渡米後の研究テーマも、当時の自分にとって全く新しい挑戦でした。修士課程まではコンピュータビジョン分野で人物検出や追跡の研究をしていましたが、博士課程ではそれを発展させて人物の行動認識や行動予測に取り組むことにしました。人物検出で人を見つけ、追跡で動きを追い、その延長線上で「何をしているのか(認識)」「これから何をしそうか(予測)」まで解釈する、いわば人の動作解析の一連の流れを博士課程のうちに完結させたいと考えていました。実際、行動認識・予測の本格的な研究は、この渡米中にゼロからスタートしました。未知の領域でしたが、だからこそ米国でスタートする価値がある、研究者として能力もテーマもゼロから構築してみせる、と。

とはいえ、研究を指導してくれるはずの Bir Bhanu とのコミュニケーションにも最初は大いに苦労しました。インド出身で訛りのある英語を話される方でしたが、私のリスニング力では週一回の1対1ミーティングで教授が何を言っているのかほとんど聞き取れないという有様。初めの1〜2ヶ月はミーティング内容の半分も理解できず、自分なりの解釈で研究を進めては「方向性がズレている」と指摘を受ける失敗を繰り返しました。それでもめげずに試行錯誤を重ね、自分で論文や文献を読み漁り、手を動かし、なんとか研究を前に進めようともがきました。暗中模索の日々でしたが、裏を返せば自分の頭で考え手を動かす力が鍛えられ、自主性と粘り強さが培われた時期でもありました。と、ポジティブに捉えるようにしています。

米国での生活はまさに研究漬けでした。シャワーと睡眠、そして運動の時間以外は、ほぼすべて研究に捧げていました。平均すると1日16時間前後は大学周辺のどこか(研究室、自宅、キャンパス内、カフェなど)で研究か研究に関連する何かに時間を費やしていました。もちろん、英語力を少しでも伸ばすための努力も並行して行いました。例えば毎朝5時に起きてオンライン英会話を欠かさず受講し、研究室以外、例えばカフェで店員や近所の人と積極的に会話し、日々使う研究ノートや検索キーワードも全部英語にするなど、自分の頭を英語脳に切り替えるトレーニングを続けました。

睡眠時間を削って英語の勉強と研究に打ち込む半年間で、帰国後に再会した友人から「まるで別人みたいになっている」と言われたほどです(逆に、渡米当初の自分がどれだけひどかったのか、という話ですね…😅)。一方で、生活は単調かつ孤独でもありました。異国の地で頼れる知り合いもほとんどおらず、研究室以外では日本人コミュニティにも属していなかった(研究室に日本人もいない)ため、毎日がもの凄く長く感じられました。充実はしているものの精神的には決して楽ではなく、ホームシックに近い感情を覚えたこともあります。7ヶ月の滞在期間が2年にも3年にも感じられる、当時の感情を今も覚えています。満月を見るたびに「あと◯回満月を見たら日本に帰れる」と指折り数えていたのも、今となっては苦い笑い話です。

それでも、粘り強く努力を積み重ねた結果、滞在終了間際には研究も大きく前進していました。取り組んでいた人物行動認識・予測のアルゴリズムはプロトタイプが完成し、実データでそれなりの精度で動作するところまで漕ぎつけました。日本にいるRAプロジェクトの先生(渡米前に私をRAとして採用)からも「見違えたね」と評価していただけるほど、研究テーマの進捗を実感できました。

実は米国滞在中も並行して、修士課程から続けていた人物検出・追跡の研究成果についても論文執筆・投稿しており、慶應大学博士課程の修了要件である学術論文2本以上という条件については、博士課程1年目の途中時点で既に4本の学術論文採択という形でクリアしていました。それだけ聞くと順風満帆な博士課程に聞こえますが、正直に言うと米国での研究成果自体は当初、メジャーな国際会議にはなにひとつ通りませんでした。ここで、世界の高い壁を痛感し、努力しても努力しても「自分はまだまだだ」と思い知らされました。しかし、この悔しさが次のステップへの原動力となります。

埃まみれのデスクを自分で掃除してスタートした米国研究留学でしたが、帰国前の送別会ではみたことないくらい多くのメンバーが集まって中華料理屋で送り出してくれました。聞いてみると「ずっと hard work している様子を見ていた」とのことです。まだまだでしたが、みるみる英語も上達していく様子も面白がって見てくれていたようです。帰国日にはリバーサイドからロサンゼルス空港まで友人(現在 Amazon でteam leader)が車で送ってくれました。"Rise to the top of Japan! (日本のトップまで駆け上がれ!)" と言ってくれたのをはっきりと覚えています。

米国で培った基礎と経験を胸に、帰国後も研究を続けた私は、その後ドイツ・ミュンヘン工科大学(TUM)への研究留学の機会を得ます。そして、その12年後にはオックスフォード大学の名門研究室で研究仲間と一緒に大学院生をメンタリングして、国際連携を動かせるようになっています(この話は前回の通り [Link])。

実はこのドイツ滞在中に行った研究で、念願だったメジャー国際会議の論文採択(Asian Conference on Computer Vision; ACCV 2014)を勝ち取ることができました。米国での苦杯を糧に、産総研でのインターン(2012年5月〜2013年3月)やドイツ滞在を経て、ついに世界の舞台に食い込めたのです。このドイツでの経験や、そこから始まった研究コミュニティ cvpaper.challenge の創設については別の記事で詳しく触れています [Link] が、私にとって米国カリフォルニア・リバーサイドでの悪戦苦闘こそが、研究者人生を変える最初の原点だったことは間違いありません。

そうそう、ACCV といえば自ら創設して大きくしてきた研究コミュニティで叩き上げてきた技術「実画像を用いない視覚事前学習(FDSL)」が ACCV 2020 にて第2位である賞を獲得しています。何百件もある論文の中から「アジア選手権決勝進出!」に相当する賞を獲得できたのは、記録によると実に20年ぶりだったそうです。投稿はアジア限定ではなく、もちろん世界中からありました。

おわりに

振り返れば、博士課程進学から米国留学に至るまで、本当にギリギリのギリギリ、道を踏み外してもおかしくないような中でうまくいった側に入れてもらえたように思います。就職活動での挫折、英語の壁、研究の難航…。何度も何度も何度も何度も壁にぶつかりましたが、その度に「絶対に研究者として成功する」という執念にも似た自信と、「劣っている分、誰よりも積み上げていく」という覚悟で乗り越えてきました。そしてその信念は少しずつ形になっていきました。

自分の絶対的な自信 × 確実に積み上げた努力は結実する。
周囲から反対されようが無視されようが、結果により簡単に覆せる。

これは私の経験です。どんなに拒絶されても、現状を変えるために正しい努力と時間の投資を続ければ、必ず目標に近づく。米国での研究留学経験はまさにそれを体現する日々でした。しかし、私もまだまだ道半ばですし、さらに上を目指して挑戦を続けます。

たとえ今、国際会議の論文が一つも通らなくても自信・覚悟があれば大丈夫です。自分の独自性や強みを最大限に活かす戦い方さえ見出せれば、状況はいくらでも好転します。研究者のキャリアは人それぞれです。しかし、「自分なんかダメだ」と可能性を狭めてしまうには先行きは長く、そして世界は広いです。私自身、どん底からスタートしましたが、運とご縁にも恵まれつつ、自分を信じて努力を積み重ね続けた結果、なんとかここまで来ることができました。

努力はすぐには報われないかもしれませんが、それでも自分の信じた道を一歩一歩前に進めば、ある日振り返った時に驚くほど遠くまで行くことができます。その可能性を信じて、ともに頑張りましょう。

いいなと思ったら応援しよう!