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ソ連MSX物語②MSXに未来を見出した男達

父はプラント輸出の専門家でした。これは工場を丸ごと輸出するもので、三百種千台の工作機械・ノウハウ・整備・人員教育・アフターケアなどを全てを含めた巨大なプロジェクトなのでした。

父の担当したウラル化学機械工場。写真は2017年で現在でも稼働中とのこと。
父の会社の広報。スムガイト工場は第二次計画で、最終的に第五次まで拡張されました


父の担当したアゼルバイジャン・バクー工場(正確にはその隣のスムガイト市)は千人規模と言う巨大な物で、これだけのプラント輸出が出来る企業は世界でも限られていました。相手がソ連なら尚更のことです。
工場の最終的な実力は製造品の品質検査に集約されます。1970年の立ち上げ時にはそのデータ管理を全て手動で行っていました。

この物語の舞台となる1970年に父が初めて手掛けたバクーの工場
最初期の工場のレイアウト設計図126×177メートル。
その後20年間で大幅に拡張されました。
納品機械の数々。ソ連の仮想敵国であるアメリカから輸入された品もあり、厳しい審査が行われたとのこと。現在の米中の対立以上の緊張感があったそうです。
父が記念に所有しているプレート

1980年代に入るとデータ管理はコンピューターの仕事に移っていきます。巨大なデーターをコンパクトに集計するパソコンの効果は絶大でした。既に日本国内では16bit機であるPC9801系列が使用されていましたが、ココム規制(対共産圏輸出統制)により16bit機の輸出は厳しく制限されていました。その為8bit機のPC8801mkⅡが1984年にソ連工場に導入されたのは前回お話した通りです。しかしこの巨大工場に僅か1台の割り当てだったのでした。

導入の申請は1983年でしたが審査に1年以上かかり、結局84年にずれ込みました。それだけ審査が厳しかったのです。余談ですが当初は初代PC88が予定されていたとのこと。審査中に新機種が発売されたんですね。こういった経緯もあり父は楽器としてヤマハMSXをソ連に持ち込んだのでした。

まずパソコンと言う物をはじめて触れたソ連の技術者は、その実態がよく理解できなかったようです。父は「電子タイプライターだ」と説明したようですが、数学を得意とする何人かが「これは高度な計算機なのでは?」と言うことに気が付きます。
ソ連ではコンピューターを使用できるのは軍関係者や宇宙産業などごく限られた特権階級の人間だけでした。特に国立大学などの研究機関にパソコンは集中配備されていたそうですが、それは工場に勤務する叩き上げの技術者にとって「別世界」と言って良かったのです。

アゼルバイジャンの国立大学。共産党のエリートしか入学を許されませんでした。

ソ連で大学に進学するためにはコムソモールという共産主義青年団に入り、奉仕活動などで実績を上げる必要がありました。14~28歳の男女で組織されているボランティア団体なのですが、ソ連共産党幹部の養成機関というのがその実態でした。共産主義と国家への忠誠が重要視され、奉仕活動にはスパイ活動や密告も含まれていたのです。

余談ですが現在のプーチン政権はこのコムソモールをモデルにした青少年愛国運動「第1の運動(ドヴィジェーニエ・ペルヴイフ)」を設立し、若者世代の思想統制を進めています。現在のロシア事情に詳しい父の知人に聞いた所、プーチンの個人崇拝の色彩をより強めているとのことでした。

1979年の革命記念日。コムソモール共産主義青年団のパレード。ソ連体制下では国家への忠誠が何より優先されていました。
1970年ソ連共産党の下部組織のピオネール共産主義少年団。
シンボルは赤いネッカチーフ。

例えばテトリスの作者アレクセイ・パジトノフ氏もその一人です。彼はソビエト連邦・科学アカデミーのコンピュータ部門で勤務していた際にテトリスを開発しました。 使用したのはエレクトロニカ60で、これはグラフィック機能を持たないテキストのみのパソコンです。完成はこの物語と丁度同時期の1984年のことでした。パジトノフ氏のテトリスに込めた反戦と反共産主義の想いは改めて記事にしました。


89年パジトノフ氏インタビュー。ソ連の半分のPCでテトリスは稼働していたそうです。
パジトノフ氏が使用したエレクトロニカ60

一方ソ連は教育に力を入れていたため、技術者の水準は高かったと父は回想しています。特に父の担当した工場には工業高校の成績優秀者が抜擢されていました。しかし「働こうが努力しようが賃金は同じ」というソ連共産主義の悪癖によってその勤務態度は最悪で、典型的な日本型企業戦士の父は大いに憤慨していたと言います。

ソ連の教育水準は高かったそうです。ここでも共産党シンボル赤いネッカチーフが

そんな彼らがたった1台のPC8801mkⅡに興味を持ったことを父は不思議そうに眺めていました。「残業なんてもってのほか」と嘯く連中が、勤務時間が終わった後もパソコンについて質問攻めすることに閉口していたと言います。何しろソ連のホテルでは時間を過ぎると食いっぱぐれてしまうのですから!

父も愛読する国境のエミーリャより。池田邦彦先生のXから拝借しました。


日本のノリで残業してホテルに帰ると、レストランに施錠されていると言う有様でした

父は冷戦時のソ連民衆を「冷たく停滞した、あきらめの時代だった」と回想しています。自分の仕事に何一つ責任を取らず、人より汗を流すことを断固として拒否する姿勢は、ソ連社会全てに蔓延っていました。そんな彼らを内心軽蔑していた父でしたが、彼らの熱意に対して一筋の希望を見出すのでした。
1985年の夏に教育用のパソコンとして、父が個人贈与と言う形で合計6台のMSXをソ連技術者に贈った経緯は前回紹介しました。その際MSXを手に入れた技術者の感動は父を驚かせました。

「噂には聞いていたが、本当に実在するとは信じられない!」

「大学の研究室で共同で使用されている高級計算機を個人所有できるとは!」

85年にはYamahaCX5は型落ちのMSX1で、日本では非力なPCでした。しかしソ連の技術者にとっては宝石のように輝 いていたのだと思います。

それは凍てついた彼らの心に、好奇心という炎がともった瞬間でした。僕は38年前に初めてMSXを所有した感動を今でも忘れることが出来ません。しかし彼らの喜びはそれ以上の物があったのではないでしょうか。
旧ソ連の片田舎で「MSXに限りない未来の可能性を見出した」男たちのドラマが始まろうとしていたのです。

父とMSXソ連技術者「彼らの目の輝きを忘れることができない」と父は語るのでした

タイトル写真は地下宮殿と呼ばれたバクーの地下鉄。防空壕としての役割も担うため、地下深く建設されました。


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