見出し画像

その3「無料だと意外に読まれぬ切なさよ!」誠実ってなんだろう?

noteでは最終回となります。

noteで、おすすめに上がってきた人たちにはなるべく個別にコメントするようにしているけれど、全て拾い切れるわけではないので、「私には来てないよ」という方はごめんなさい!

誤解されてなんぼ、というか読む人が自由に読んで解釈すべきなのが小説や文章なので、そこはしょうがないな、と思う。
問題はそれが間違って拡散されてしまうことで、伝言ゲームの中、いつのまにか私は今現在とっても気の毒で切実でせっぱつまった人みたいになってしまっている。ちょっとは困るが別にいい。日常で会う人たちとは通常運転だから。万が一誤解があっても、実際に会う人はひとりひとりに誤解をとければなんていうことはない。
話題が話題だっただけに、官公庁の仕事、企業の仕事はなくなるとは思うが、もともと小説にもっと専念したい年代に入っているのでそれもかまわない。

ものごとには基本的によほどのことがない限り解決法がある。それをその人がしたいかしたくないか、そこだけの問題だと思う。
たとえば「余命が宣告されている重病がある」であれば、解決法は「とにかくもう一度健康になる」という雑なことではなく、去るまでのあいだをなるべく楽に、と切り替えることであるとか。
こういうことを書くと、「戦争はどうなんですか?」という質問があると思うけれど、戦争はなくなるべきだ、これがたったひとつの正解だ。しかし、戦争はなくならない。それはたった2万字をこんなにも違う解釈で読めちゃう人たちを見るだけで、また、話が伝言ゲームでどんどん謎の方向にいくことを見ていても自明のことであろう。
しかし、偉い人たち(かなり大ざっぱな表現)を見るとわかる。いやな解決法ではあるが、世界中に不動産を所有していて、今戦争でないところに移る、それだけでその本人自体の問題は解決する。「できない」ではなくて「するしない」の問題だと思う。
3・11のとき、関東の人たちはまさにその選択をせまられ、残る人、移住する人、一時避難して西、南に移動した人、いろいろなパターンがあったが、それが解決法だった。

つまり、どうにもお金がないし疾患があって働けなければ、生活保護を根気よく申請、節約生活をする、家賃の安いところへ引っ越す。ねずみが出たら駆除する、病気はなんらかの形で治療、などなど解決法はある。それだけのことであろう。

私の姉の場合、あの記事の時点でとりあえずいったん危篤状態からは脱したが、蜂窩織炎で手が腫れ上がっていて仕事ができない状態がたぶん数ヶ月続くであろうと思われた。ちなみに痛みと熱での混乱は多少あったけれど、決して意識不明ではなく、入院せず通院していた。
ねずみの駆除も一部屋ずつだと永遠に進まないように思われたが、病気であれば立ち会いもできないだろうからいったん中断するしかない(私の家の近所の書店のお姉さんたちが、効果的な超音波機器とその置き方を教えてくれてとても助かった)。
私はそういうわけでもう別の人生を歩んでいて自分の生活に忙しく、駆除に立ち会ったり毎日お見舞いに行ったりすることはできないし、その気持ちも特にない。姉には姉の周りの助けてくれる人たちがいるからだ。
点滴は一ヶ月続いて、その医療費はいったん高額となり、高額分が返ってくるのはしばらく後になると聞いた。
生活保護も本人が元気でないと進められないし、姉には現役で本を書いている事実と父のたまに入る印税という収入が実際にある。さらにまずいことに私が24歳で立ち上げた有限会社の役員になってしまっている(今後を考え会計士さんに相談し、解任しました)。
当面、なにができるかなあ〜、知り合いに募金をつのるか。全員に会うために歩いて回っている時間は私の生活の忙しさでは時間がかかるだろうな、ということで、「記事を売って、そこで説明をして、当面の医療費を稼ぐか。そしてもし姉が死んだ場合、借金を返さないままだと後味が悪いだろうから、余剰が出たら姉をテーマに書いたものだから、と収入を明記して、借金のある人たちにはきちんと返そう」
というのが、この問題の主旨であった。こんなに大ごとになるとは、やっぱり日本が心配!
とにかく「共依存で追い詰められてもうお金がない、苦しい、困っているのです、助けて!」という主旨ではない。ちゃんと読んだらそれがわかるように書いたけれど、ふだん文章を読み慣れていない人にはそう伝わってもおかしくないな、とも思うし、読む人の自由だとも思う。
どうしてそういう主旨でないと言い切れるかというと、医者から「今夜がヤマなので病院で管理しないと、急にカリウム数値が上がって腎不全で死ぬ可能性が高い」と細かく説明された段階で、姉がそう遠くなく死ぬと仮定してのことだったからだ(おかげさまで点滴を受け続けることができ数値は安定しました)。
嫌いな人物ではないので、死ねば悲しい。懐かしさも情もある。それは普通のことだろう。余剰のお金があれば都度多少の手助けはしたい。それもごく普通の話だろう。借金を返したいという意思があるのに返せなくて死ぬのもきついだろうな、ということも思った。しかもその借金は、私が今後の人生で会っていく人たちからなのだから、なおさらだ。
「共依存だから切り離せ」という説がかなり多かったが、切り離すにも時期はあるだろう。なにも死にかけているときでなくても。こちらに罪悪感が残るとかいう話ではなく、人道の話だ。
私が今姉と暮らしているならともかく(暮らしていたら清潔好きの私はねずみは増やさせないけど)、もう別の家族と毎日いっしょうけんめいやりくりして主婦として楽しく暮らしているわけで、別々の人生なのだから、多少のお金を援助していた(しかも形だけでも役員だし)ということも、普通にありうることではないだろうか、と思う。
1200万円に関しては、思うところがなくはない。私がもし1200万円を生前贈与されたなら(しかも贈与税もちゃんと取られて)、それを頭金にして猫が飼えるところに引っ越すか、残りの人生を見すえて計算し、大切に使うだろうと思う。姉がそれを姉のエッセイで有名な半身不随の猫の医療費で溶かしてしまって後にお金に困っていると言ってくる、それはほんとうにバカだな!と思ったけれど、信じて渡した自分が悪いな、とだけ思っている。ホストやヒモに貢ぐ場合は見返りがあるだけマシなのでは、と思っているくらいだ。しかしその猫は私にとっても愛猫だったので気持ちはわからなくはない。ちょっと極端だ、とは当然思っているが、物書きにはそういう多少の狂気はあるだろうな、とも思う。
みなさんの募金のお気持ちを、姉が猫で溶かすのでは、それはいやだ、というご意見も多く見受けられたが、ご安心ください。そこまでの額ではなかったし、会計士さんの元で税金対策をしながら、医療費と借金の返済、ねずみ駆除代にのみ、きっちりと当てていきます。余剰があれば生活費も常識の範囲内で多少援助していきますが、弊社の預金を充当することは役員ではなくなったのでもう二度となくなりました。このリスクがスタッフや取引先に影響を与えるのが最もいやだったので、解任してほっとしています。

別に「大好きだけど大嫌い」という葛藤さえ持っていない、ほぼもう他人というか別の人生の姉だが、人物としては好きな人物だ。誰であれ人がお金の心配なく医療を受けて回復できるのはよかったことだとしんから思っているし、記事を買ってくださったみなさんに心から感謝している。
しかもそれを私の稼ぎや会社から捻出したら一生同じくりかえしになってしまうので、切り離した他人のお金、という概念を姉に叩き込めたこと、そして命が救われたこと、姉の周りの人に姉の窮状(隠していたのだと思うので)がしっかり伝わってサポートを受けられるようになったことに関しては、いいことしかないと思う。ありがとうございました。
もちろん記事に関しては一方的に書かれた姉の葛藤もあると思うし、反発もあるでしょうから、それは姉が自分の媒体でがんばって書いてもらいたいし、どんなことも他者として受け入れる(許すとか愛とかではなく、他者の作品として)つもりだ。

うちの母は確かに神経症だったし、ごっつい強い性格だったのでかなりやっかいではあったが、大人になったら自分を育てるのは自分である。もう親のせいにしてはいられない。
性的虐待、暴力で実際の傷が残っている、家に殴り込んできて金銭を掠奪していく、そういうケースは法が介入すべきだし、カウンセリングも必要だろう。立ち直るのに時間が長くかかるかもしれない。
それに比べたら、私たちの受けた精神的な虐待は、超ライトなものだ。自分で乗り越えるべきレベルだと断言できる。
あまりにも母が面倒くさかったので、私が家を出てからは誰も戦わなくなり、なるべく穏便に穏便に今日をやりすごそう、という状態により、母のエゴがますます肥大し、ますます孤独を感じたであろうことも、実際にはあまり見ていないが流れとしては想像できる。
私は母とは合わないし人としてそんなに好きなタイプではないが、元々結婚するほど母を好きだった父や、良い幼少期を過ごした姉なら、当然の流れだろう。
よくある家庭のよくあるレベルのむつかしさだと思う。
なまじ文章がうますぎたから(自分で言うのもなんだが)、大袈裟に捉えてしまった人が多かったのではないか、と思う。
また、親の残した家で静かに死にたい、と思う長男長女がいるのもあたりまえのことで、ちょうど同じ時期に絵を描くアーティストのMちゃんの家でも同じようなことが起きてしかもお姉さんが亡くなり(リンクは貼りませんが、そもそもうちよりよっぽど大変な家庭。でもだからこそ彼女の作品はあんなにもすばらしいのだとやはり思ってしまう)、今、こういう、いわゆる孤独死は多いんだろうな、と思う。近年周りでもたくさん聞く。私の死んだ友人もそうだった。
できればみなさん家をきちんと管理して、残された人たちの迷惑を考えてほしい、と思うけれど、それができなくなってしまうのが病気や高齢というものなのだろう。そこを責めることは違うな、と思う。
昔から好きだったMちゃんと、ますますの連帯感のようなものが生まれて手を握り合う、そんな瞬間が持てたことも、すごくよかった。
しかしそんな私たちの共感は、家庭環境の複雑さからではなく、お互いがその中で創り続けてきたことから生まれている。
「NO NO GIRLS」のオーディションで、ちゃんみなさんが正確には少し違うかもしれないが、こういう趣旨のことを言っていた。「自由にやりたい場合は、一回型にはまらなきゃいけない。とことん型にはまってからほんとうの自由がやってくる。そして自由にやりたい私たちみたいな人は、人の何千倍もがんばって、スキルを磨いて、やっと自由になれる」
そう、私もMちゃんもそうやってスキルを磨いてきた。死ぬほど書いて、描いた。家庭環境を脱出するためではなく、自由な表現を求めて。
Mちゃんのキャッチーなところがある絵は、多くの人に求められた。でも、当時「描きたくない絵を描きたくないタイミングで描きたくない」と仕事をしっかり選び始めた彼女に感動した。そうやって人は、創作の自由を獲得していくのだ。
「キッチン」という小説の冒頭で、「私がいちばん好きな場所は台所だと思う」の「思う」はおかしいやろ、己のことやんけ、という批判をありとあらゆるところから浴びた。しかも売れてからのことだから、売れる前はみんななんとも思わなかったわけだ。そこも引っかかった。
文法的には正しくないかもしれない。しかし主人公のあてどなさ、宙に浮いている感じを表すのにはベストな表現だったと思う(思う 笑)。
そういう特異な表現を書き続けることの自由を、死ぬほど書いて今やっと得ているわけだ。ちゃんみなさんのおっしゃっていることが、わかりすぎる。

いちばん攻撃的な反響があったのは、顔のことだった。顔の問題ってすごいな、と思った。整形をしている人が爆発的に多いのは、医療の発達もあるけれど根源的な理由があるのだな、と思う。
他の人を引き合いにすると、その人たちがいかに著作や映像でそのことを言っていても責任が取れないことがわかったので、自分に関してだけ書く。
私は小説家だから、よく観察している。顔だけではなく、動作、歩き方、持ち物、服装、なんでもかんでも。何万人ものデータを取っている。
その上でTVに出ている自分を客観的に見ると、あるときまで極端に顔を閉じているという感じがしていた。心に隠し事があったり、笑顔でごまかしている人だな、というふうに。TVに出る緊張のせいかな、とも思ったけれど、なんか違う。それだけではない奇妙な味があるような。
レズビアンの方たちを引き合いに出したのも申し訳なかったけれど、どれだけの数のレズビアンから「あなたはレズ、絶対、顔でわかるから」と断言されたことか!もしかしたらそうなのかも、と思えるくらいの数だったので、しょうがないような。それって全然悪いことではないし。人が人を好きになるのは自由、を信条に小説を書いてきたので、コアな読者には伝わっているだろうと思う。
しかし、子どもを産んで、育てている過程で、いつのまにか顔が表向きになっていた。今は面の皮も厚く、どこに出ようが同じおばあさんだ。
これがいいことなのか、悪いことなのか、よくわからない。
でも確かなことは、辛い経験はやがてその人の表情の深みになるということだ。私はあまりにもたくさんの人を観察したから、虐待を受けたことがある人のあり方はすぐわかる。三砂ちづるさんが私の人生を見抜いたように、わかるのだ。でも私はそういう人の顔が好きだ。深い人間味を感じる。幸せでのっぺりした人の顔も好きだ。これから刻まれていく豊かさを感じる。何回も書くけれど、今のユーミンの顔も大好きだ。若い頃にはなかった豊かな輝きがある。たくさんのステージに立ってきた確かな自信が美しい。
人間の顔っていいものだなあ、と思う。

世界中で訳され世界中に読者がいるのは、村上春樹さんや川上弘美さんや、その他にもたくさんいるが、私もまた、国家を代表する作家のひとりと言ってもおかしくはないだろう。世界36カ国で本が訳され、どの国にも読者がいるのだから。
「相手にすること自体がおかしい」「スルーしろ」というのもよく言われたけれど、相手は人間だ。人間には人間として対処するのが普通だろう、と私は思う。そんなにしてまで保ちたい平穏は、家族に晩ごはんを作る時間を奪われたら困るから相手するの無理、くらいしかない。
あまりにもレベルが低すぎると感じる意見(重いとか暗いって言うだけの人は読書はしないほうがいいような気がする。私で重いなら、ドストエフスキーとか読んだら死んでしまうのでは!)や目上の人に対しての態度がおかしい人はほんとうにブロックandスルーしたけれど、誤解があると感じたり、真摯な人には、対応するとひとりひとり、ちゃんと言葉が返ってくる。その人の心には、なにかが少しだけでも残るだろうと思う。人間同士がやりとりした、という感触が。
ものを書いて生きる覚悟ってそういうものじゃないのかな、と感じる。
誠実さ、というのはそれでしか示せないのではないだろうか?
もちろんまんべんなくまじめにやるのがベスト、とは思っていない。できる範囲で人に誠実に、そして作品はより誠実に。
弱いところも強いところもある人間同士、意見を交換しあい、補い合うために言葉はある、と信じている。信じているから、本に救われることがあるのだ。「アンナ・カレーニナ」なんて昔の人の不倫の話でなんにもかぶるところはないのに、気持ちがわかるではないか。「罪と罰」なんて人を殺してるのになぜほんの少し共感できる部分があるのか。それが文字を読むということ。
文字でなくてもいい。「九条の大罪」を読んでどうして自分は借金もしていないし、闇社会から追われてもいないのに胸が苦しくなるのか。「青野くんに触りたいから死にたい」はなぜあんなに暗い話だし全員なんか間違っているのに、心底癒されるのか。あんなに癒された経験は近年ないほどに。

なによりも、「これはほんとうにありがたいな」というくらいしっかり読解してくれた人(「本の惑星」での内沼くんや、ヒラクくん、曽我部くんや、ふくしひとみさんや、ユザーンくんや、鎮座DOPENESSくん、EIJIくん、内田春菊さん、紅甘さん、小沢くん、さくら剛くん、野中柊さん、内向型の頂点さん、アイリーンちゃん、清水ミチコさん、合田ノブヨちゃん、ピストさん、坂爪くん、ユーミン🩷、大瀧冬佳さん、曽我部くん、よなよなのみなさん、毛玉さん、ロケッティーダさん、小雪ちゃん、山西くん、石原正康さん、壷井円さん、元あんみつの大北さん、志帆ちゃん、舞ちゃん、ミンミンさん、マルーちゃん、えこちゃん、深井さん、太田さん、小川くん、ベイリーさん、ハッチー、プリミさん、岩尾朋美さん、きこさん、Lilyちゃん、川上弘美さん、ヨウさん、SHIOちゃん、やがみくん、伊藤くん、蒼山さっちゃん、メグミさん、彼氏のKさん、まりさん、小田島くん、慶子さん、B&Bの伊藤さん、グラウベルのかのうさん、飴屋さん、スタッフのみんな、エージェントのとしちゃん、そして書ききれないですがもっともっとたくさんのその他の名乗ったり名乗らぬたくさんのすばらしい感想を寄せてくださった人々)、「大丈夫〜?」と普通に接してくれた周りの愛する人々、ありがとうございました。とても励みになりました。

私はふだん、純文学という最も売れないジャンルの小説を書いている。ニッチなニーズでニッチな読者(でも世界中にいるのだから気は抜けない)に対して、ああでもないこうでもない、と毎日頭をひねって、こつこつと言葉を紡いでいる。
だから、多くの人に読まれるという経験を久しぶりにして、これはこれで楽しかったし、嬉しかったし、デビューの頃を思い出して懐かしかった。ありがとうございました。
ニッチなニーズのニッチな読者のいる地味〜な世界に戻っていくけれど、
ニッチな読者に決して甘えないようにしよう、いつも新鮮さを与えられる文章を書こう、といっそうしっかりと思った。


母のいいところもちょっと載せなきゃ、と思って母と孫のいい写真を探している過程で、あまりにもいい写真を見つけたから貼っておきます。ラブ子が死ぬ数時間前、会いにきてくれたマヤマックスと、死んでいくラブ子に寄り添うゼリ子。今はもうみんなこの世にいません。窓の外のアロエだけがまだ生きています。こういう瞬間を捉えるために、書いていきたいです。