「傭兵集団ラルク」と「運命共同体GLAY」。正反対の組織が30年生き残れた理由
2010年。
高校生1年生だった私のポケットには、第5世代のiPod nanoが入っていた。
Bluetoothなんてまだない時代で、白い有線イヤホンを使うたびに毎回絡まりを解いて使ってた。
クリックホイールをくるくると回して、アーティスト欄を探していた。
当時、全アルバム隅々まで網羅するほど、私の耳はラルクを吸ってた生きてた。
あれから16年。
当時の2倍の人生の中で、当時の音楽体験を振り返ると、
ふと両者の「組織論」の違いが浮かんだので記事に残してみる。
共に90年代〜00年代を駆け抜けた二大巨頭、
ラルクとGLAYの決定的な違いについて。
個人主義のラルク、チーム主義のGLAY
結論から言えば、この2バンドは組織としての構造が真逆なんだなと。
思春期の私の目には、GLAYは「眩しいほどのチーム」に見えた。
『SOUL LOVE』のMVで見せる、メンバー同士が笑顔でじゃれ合う姿。
あれは演技では出せない。
TAKUROという絶対的な精神的支柱があり、TERUの声を全員で支える。
彼らは「音楽性の違い」よりも「4人でいること」を優先する、
ワンピースの麦わら海賊団的な運命共同体だ。
対して、私が心酔していたラルクは「プロフェッショナルの傭兵集団」だ。
hyde、ken、tetsuya、yukihiro。
4人全員がシングル表題曲を書けるという異常なクリエイティビティ。
彼らは友達というより、最高の仕事をするための「ビジネスパートナー」に見えた。
馴れ合いはなく、ステージ上には常に「個と個がぶつかり合う緊張感」が漂っていた。
「バラバラな個」を繋ぎ止めたtetsuyaのベース
では、なぜラルクという個性の集合体は集合体でいられたのか?
高校生の当時はそんなこと微塵も気にならなかったが、今なら推測できる。
tetsuyaが奏でる「歌うベース」こそが、このバンドを繋ぎ止めるアンカーじゃないかと。
当時、tetsuyaに憧れてベースを買った私は、
高校のコピーバンドでその凄みを指先で思い知ることになる。
入り口は『READY STEADY GO』だった。
この曲は最高だ。
ピックでガリガリとルートを刻み、疾走感に身を任せれば
「俺たち、ラルクやってる!」という全能感に浸れた。
しかし、その自信は『Driver's High』や『HEAVEN'S DRIVE』で粉々に砕かれた。
特に『HEAVEN'S DRIVE』は鬼だった。
口ずさめるくらい聴き込んでいたはずなのに、
いざ弾こうとするととてもついていけない。
彼のベースはリズムを支える裏方ではなく、
「第二のボーカル」としてメロディを歌っている。
hydeが歌う主旋律の裏で、
tetsuyaのベースがうねるように別のメロディを奏でる。
(しかも高いコーラスまでこなす)
「ポップでキャッチーに聴こえる曲ほど、変態的に難しい」
コピーを諦めたと同時に、彼らのプロとしての「壁」の高さを知った。
多様な曲調が溢れてる。
そしてもう一つ、GLAYにはないラルクの魅力は、
お茶の間に「美しい絶望」を届ける力だった。
『花葬』や『浸食 -lose control-』のような、
変拍子で不穏、かつ退廃的な楽曲をゴールデンタイムに響かせる。
思春期特有の不安定な心には、直球の応援歌よりも、
この「毒」のある美しさが栄養になった。
2010年頃は、VAMPSやてっちゃん(tetsuya)ソロなど、
メンバー個々の活動が活発化していた時期だ。
「バンドが解散しちゃうのかな?」という不安と
「やっぱり4人揃った時のラルクは最強だ」という確信。
その危ういバランスの中で揺れ動いていたからこそ、
iPodから流れる4人の音は、より一層輝いて聴こえたのかもしれない。
余談だけど、てっちゃんご本人によるコピバン「Like-an-Angel」は、
まさにこの組織論の究極のオチになる。
他のメンバーがそれぞれ活動で自由している中、
「ラルクを動かしたい!俺の作った曲を弾きたい!」
というリーダーの行き場のないエネルギーが爆発した結果、
本人が本人の曲を演奏するために、別のメンバーを集めてコピバンをするという、珍しい事態になった。
「誰よりもラルクのファンは、リーダーのてっちゃんである」
この事実が体現されたようで、そう見てるとなんだか最高に愛おしい。
結論:緊張の芸術、ラルク。 調和の芸術、GLAY。
もしラルクが仲良しこよしをしていたら、
あのヒリヒリした色気は生まれなかった。
もしGLAYが個人主義に走っていたら、
あの国民的な安心感は生まれなかった。
そう思う。
組織としてのアプローチは真逆だが、どちらも正解だった。
だからこそ、彼らは30年以上経った今も、私たちの前で音を鳴らし続けてくれている。
