希望のハコ 最愛の娘になった最愛の君へ エピローグ
残暑に燃えるの庭に騒がしい笑い声と猫の大合唱が木霊する。
「カンナちゃーん食らえぇ!」
「やったなあハコちゃーんー!」
庭に広げた海外製の大きなビニールプールの中でピンクの水着を着たカンナと濡れても平気なハーフパンツとラッシュガードを着たハコが水を掛け合って大はしゃぎしている。
そのプールを囲うように十匹の飼い猫たちが昼寝を邪魔されたと抗議の鳴き声を上げている。
そんな様子をカギは、縁側に座って包帯で固められた右手で温くなった缶ビールを飲みながら見ていた。
「おかわりいる?」
ゆかりが両手に缶ビールを持ってやってくる。
カギは、鋭い目でゆかりを見上げ、缶ビールを持ち上げる。
「まだ入ってる」
そう言ってクビっと一口飲む。
「それに今、酔っ払ったら夜まで保たねえ」
夏休み最後の日。
今日はカギとハコの家の庭を使ってゆかり家族と水遊びとパーベキューをすることになった。
火起こしや準備もしないといけないのに酒の弱いカギではこれ以上飲んだら何も出来なくなる。
「そりゃそうだねえ」
ゆかりは、カギの隣に密着するように座る。
今日のゆかりはハコとカンナとすぐに遊べるように肩開きのチェック柄のヘソ出しシャツにハーフパンツなので剥き出しの肩と太ももが直に身体に触れる。それに暑いからか長い金色の髪をポニーテールにしているから白く、健康的なうなじも見える。
カギは、鋭い目を細めてゆかりを睨む。
「おいっくっつき過ぎだ」
カギは、低く小さい声で言う。
「旦那に見られるぞ」
「寝てて気づきやしないわよ」
そう言って後ろに目をやる。
ゆかりの夫は、奥に広がる座敷で畳の上に寝転がって大鼾をかいている。
テーブルの上には缶ビールや焼酎の瓶が散乱しており、いったいどれだけ飲んだのか?と思わず背筋を震わす。
「まったくペース考えないんだから」
ゆかりは、盛大にため息を吐いて缶ビールを口に付ける。
そう言うこいつは一体何本飲んでいるんだろう?
夫婦揃っての酒豪ぶりにカギは呆れる。
「それに今更、私らに誤解や嫉妬なんてする訳ないでしょう?何年の付き合いだと思ってるの?」
まあ、確かにな……と納得しつつも"今更"と言う言葉が妙に引っかかった。と、言うことは以前は誤解や嫉妬をされていたのか?
カギは、問いただそうとするもゆかりが真剣な目でプールで遊ぶハコたちを見ているので止めた。
「ねぇ……」
ゆかりは、缶ビールから口を離す。
「あれからハコは……」
「まったく普通だ」
カギは、缶ビールを啜る。
「欠片も覚えてやしねえよ」
ハコの中ではプールでダリア婦人に拉致されたことも、大人のハコに戻ってカギと海辺を歩いたことも覚えていなかった。
あの後、雨宮が警察に通報し、ダリア婦人と彼女に協力したスタッフ二名は逮捕された。
ダリア婦人は、拒否することも否定することもなく正直に自供し、スタッフ二名も何も悪くない、全て自分が悪いのだと証言しているとのことだ。
その表情は憑き物が落ちたように穏やかだったと面会に行った雨宮が言っていた。
雨宮があの場にいたのは祭りの日にハコを拉致しようとしたのがダリア婦人の計画によるものだと知ったからだ。
雨宮は、ダリア婦人にそんな蛮行は止めるよう説得したと言うが聞く耳を持ってもらえなかった。
それどころか雨宮ですら知らなかった被害様団体がカーマ教の後継団体に行ってきた非人道行為をマスコミにバラすと脅してきたのだ。
その目は古くからダリア婦人を知る雨宮にも異様に映ったと言う。
「今、思うと僕の店にケーキを買いに来て、屋敷に招いたのも彼女の計画だったのかも知れませんね」
そう言って雨宮は、切なそうに笑った。
自分たちは正義、自分たちは間違ってないと信じて突き進んできたものが砂の城のように崩れたのだ。
雨宮の胸中は計り知れない。
それでも彼は、被害者団体を正しく導き、二度と誤った道を歩まないように尽力するとカギに誓った。
カギとハコは、駆けつけた救急隊員によって病院に運ばれた。
カギの右手の怪我は骨にまで達していて緊急の手術を行なうことになった。
大袈裟だと言ってカギは医師たちを振り切ってハコの元に向かおうとするが「あんたいい加減にしなさい!」とゆかりに一括されて渋々、手術を受けることになった。
「怖い奥さんですねぇ」と手術を担当した医師が笑い、二人は「違う!」と一斉に否定した。
ハコは、怪我こそ大したことはないが事情を説明すると一通りの検査とMRIを撮ることになった。
カギが手術することへの不安と検査と言う言い知らぬ恐怖にハコは大泣きしたが「ハコちゃん!カンナが付いてるよ!怖くないよ!」とカンナが懸命に励まし、ハコは検査とMRIを受けることが出来た。
その結果、カギの手は神経が切れる寸前で手術出来たので後遺症もなく治療を終えることが出来た。
ハコは……何の異常もない健康体と診断された。
そう……何の異常もなく……。
「ダリア婦人のことはハコにどう説明したの?」
ゆかりは、形の良い眉を顰めてカギを見る。
「旦那さんに会いに旅に出た」
カギは、短く答えてビールを飲む。
「とんでもなく雑ね」
ゆかりは、目をきつく細める。
「うるっせえな。お前はカンナにどう説明したんだよ?」
「……ダリアの花を探す旅に出た」
カギは、半目になってゆかりを睨む。
ゆかりは、恥ずかしそうに目を反らす。
「……まあ、正直、嘘か真なんてどうでもいいんだけどな」
カギは、プールに座り込んでます宝探しをするハコとカンナを見る。
「あいつには,もう……辛い記憶を持って欲しくらないからな」
そう言ってビールを啜る。
「ハコ……もう戻ってこないのかな?」
ゆかりは、不安げに呟く。
「ずっと……子どものままなのかな?」
ゆかりは、瞳を揺らしてカギを見る。
カギは、横目でゆかりを見て……ハコを見る。
「さあな」
カギは、素っ気なく呟く。
ゆかりの目に小さな怒りが浮かぶ。
「あんた……」
「……あいつは戻ってくるって言った」
カギは、小さくつぶやき、鋭い目を細める。
大人のハコが言った最後の言葉が蘇る。
"いつか……十年後なのか……二十年後なのか分からないけど……いつか自分を許すことが出来たら戻ってくる……カギのところに必ず帰ってくる……だから……だから……"
「だから俺は待つ」
十年でも……二十年でも……希望を持って死ぬまで待ち続ける。
いつでもハコが戻ってこれるように。
そして……。
「今のハコを目一杯幸せにする」
そう言って優しく微笑む。
ゆかりの目が震える。
涙が薄くこぼれ落ちる。
「私ね……いつかハコが戻ってきたら言ってあげたいの」
ゆかりは、両手で目を押さえて泣く。
「ハコは綺麗だよ……とっても綺麗だよって……」
咽びながらハコの名を小さく呼び続ける。
カギは、横目で泣きじゃくるゆかりを見る。
「ああっ……」
カギは、ゆかりの頭にポンッと左手を乗せる。
「いつか……ちゃんと言ってやれ」
ゆかりは、小さく頷いて泣き続けた。
残暑の暑さが少しだけ和らいだ気がした。
「さてと……」
カギは、缶ビールを飲み干して立ち上がる。
「ハコー!カンナー!」
カギの声にハコとカンナは遊ぶのを止めて顔を向ける。
「身体冷えるからそろそろ出てこい」
カギの言葉に二人から「えーっ!」「いやだー!」とブーイングの声が飛び出す。
しかし、カギは負けることなく目をきつく細めて予め用意していた言葉を口にする。
「出てこないならお前らのおやつ……俺がぜんぶ食べるからな」
おやつと言う言葉に二人の目がぴくんっと反応する。
カギは、にっと笑う。
「今日は雨宮のおじさんが作ってくれたスイカのゼリーだけどしょうがねえ」
カギは、目を赤く腫らしたゆかりを見る。
「二人で食っちまうか」
ゆかりは、赤い目でカギを見上げ……にっと笑う。
「そだね」
ゆかりは、すっと立ち上がって悪戯っぽい目でハコとカンナを見る。
「美味しくいただいちゃおう!」
「ダメー!」
カンナは、声を上げてプールから飛び出し、濡れた身体で縁側に登る。
「カンナも食べるのぉ!」
そういってゆかりを追いかけると「ちゃんと体拭きなさい!」と叫ぶゆかりの声が聞こえる。
「待ってカンナちゃん!」
ハコは、自分が出遅れたことに気づいて慌ててプールから飛び出し……盛大に転ぶ。
大量の水が溢れてハコの身体に盛大に掛かる。
「いったーい」
ハコは、ぶつけた肘を摩る。
涙目になり、痛みと悲しみでカギを呼ぼうとする。
その時だ。
"ハコ……"
優しい声が聞こえる。
ハコは、涙の浮かんだ顔を上げる。
女の子がそこに立っていた。
ふんわりとしたポプショートの綺麗な女の子……。
どこかで会ったことがあるような……。
でも、どこであったか分からない。
「お姉ちゃん……だあれ?」
ハコは、じっと女の子の顔を見る。
「どこから来たの?パパのお友達?」
しかし、女の子はハコの質問には答えない。
ただ、にっこりと笑ってハコを見ている。
"ハコ"
女の子は、そっと手を伸ばしてハコの髪の毛を優しく撫でる。
"ハコ……"
女の子は、切なそうに、嬉しそうにハコを見る。
"カギのこと……お願いね"
女の子は、優しく微笑んで……すうっと消えた。
「えっ?」
ハコは、目を丸くして周りを見回す。
しかし、どこにも女の子の姿はなかった。
「ハコ……!」
いつの間にか戻ってきたカギがハコの名を呼ぶ。
ハコは、丸い目をカギに向ける。
「パパ……」
カギは、ハコの肘が擦りむいているのが見え、縁側から降りて近寄る。
「転けたのか?」
「うんっ」
ハコは、ゆっくりと立ち上がり、再び周りを見回す。
「どうした?」
カギは、怪訝な顔でハコを見る。
「お姉ちゃん……いなくなっちゃった」
「お姉ちゃん?」
カギは、眉を顰める。
ハコは、大きく頷く。
「とっても綺麗なお姉ちゃん。ハコと同じ髪してて……とっても優しそうで……パパのこと言ってた」
「俺の……こと?」
ハコは、頷く。
「カギのこと……お願いねって」
カギの目が大きく震える。
右目から薄く涙が流れる。
「パパ?」
ハコは、カギが突然泣き出したことに驚く。
「大丈夫?どこか痛いの?」
ハコは、慌ててカギの身体を触る。
「大丈夫だ」
カギは、右手の包帯で涙を拭き取る。
「大丈夫だ……」
ハコの身体をそっと抱きしめる。
「俺は……大丈夫だから……心配するな……」
カギの声が震える。
「ハコ……」
ぎゅっとハコの身体を優しく抱きしめる。
ハコは、純粋な大きな目をぱりくりさせて優しく微笑むとぎゅっとカギの身体を抱きしめる。
「パパ……」
"カギ……"
「「大好きだよ」」
二つの愛しい声がカギの耳に温かく流れてきた。
「ああっ」
カギは、声を濡らして小さく頷く。
「俺も……大好きだ」
どこかで女の子が嬉しそうに笑っていた。
