『私小説』 狂騒の中にある静けさ
蝶(チョウ)は美しく、蛾(ガ)は醜いという認識が存在するのは、それを言葉によって分類しているからだ。差異を認識すると自ずと優劣が付いてしまう。とあるガイコクでは蝶と蛾を一纏めにパピヨンと呼び、含まれる全てが美しく神聖なものとして扱われるらしい。
だが、ニッポン人はワニを差別していない。ガイコク人はワニをアリゲイターとクロコダイルに分別して認識している。ことワニにおいては、ガイコク人の方が差別しているじゃあ、ないか!。
これは、単に立場をひっくり返してガイコク人を差別主義者扱いしてみようという思考実験によって生まれた急拵えのロジックであり、内実が伴っていないのでハリボテとしてしか機能しない。クロコダイルとアリゲーターの一般的な識別には、およそ美醜の立ち入る余地のない背中の模様で、曖昧に判断しているに過ぎないからだ。
しかし、日本にはファッション文化に基づいて作られた、クロコダイルとラコステというワニブランドが存在する。そこにあるワニの区別には、ポップでカジュアルなラコステとクラシックでフォーマルなクロコダイルという、ベッタリとこべり付いたレッテルが存在する。
つまり、表向きはワニ(WANI)と呼んで博愛主義者を気取っていた私を含む日本鬼子という悪魔の民族全員が、世界中に隠れ潜むと実しやかに囁かれていた、無自覚なワニ差別主義者団体WWWの構成員であるという恐るべき事実が発覚したのだ。
このように前提をひたすら覆し続けながら全く悪びれず、壁にぶつかっては反転し、縦横無尽に繰り出しては、未到の大地へと再び放言を撒き散らす、痛覚の麻痺した挙動をするルンバ的態度(失敗に対しての純然たる統計的な認識、過大評価も過小評価も無い)の根底にあるものは、私の何かとバランスを取りたがる過激な次男的気質と物語化された人生に対しての空虚さから来る狂騒の熱望によるものなのだ。
私の欠落を形作った要因となったのは、右翼と左翼の理想を聞いて、どちらの青写真の中にも自分というイレギュラーな価値基準を持った存在は透明化されていると気付き、随分前に心底どうだっていいと吐き捨ててしまったポリティカルなものの中に埋まっていた、世間様が自我や主体性と認めるに値する、定型化された人間味や性格というジャンル属性(レッテル)にある。
この言い草からして察してもらいたいのは、盲点だけを欠落した完全に正常な存在である私を異常と捉えるのは、欠落に塗れたニンゲンの歪みまくった自己認識と集団極化による誤った認識でしか無いという事だ。
幸せになんか絶対なりたくないし、クロコダイルでもアリゲーターでもラコステでもない、WANIの中でずっと息を潜めて安心していられる人生がいい。というものの、信頼のおける何人かの人間を取り込んで道連れにし、孤独から逃れて安らかに眠りたい。そうしたら、対岸の火事に薪を焚べ続ける活動に人生の情熱を全て注ぎ、より大きく燃え広がる光景を満足げに鑑賞する際に感じる一時の甘い恍惚感を共有出来たなら、きっと幾らか今よりは心地良い気分になれるのでは無いかと一縷の淡い希望を抱いてしまう、自分の弱さを未だに捨てきれてはいないのだが。
とはいえ、それが一時の高揚感が齎してくれる快楽の部分にだけ、焦点を当てた机上の空論でしか無いとも自覚している。私の気質は脳の特殊な発達に由来した、物理的な身体感覚の違いによって育まれたものなのだから、研ぎ澄ませた甘言で編まれた魅力的な物語によって蠱惑したとしても、他者の脳機能には私が報酬として得ている実感が付随しないので、その洗脳状態を維持出来る訳がない。
期待と失望をゆらめく生き様に趣を感じないでもないのだが、それを自覚的にやるのはやっぱりなんか違う気もするので、誰かサクッと一刺ししてくれれば、もうあらゆる展開を出し尽くしてデジャビュしか無くなった、大して面白味のない癖に期待感だけを煽って依存させようとしてくる醜い世界とおさらば出来るのに。まあ別にそんなに死にたかもないけど、そんなに生きていたくもない気分だね。
『うんうんうんうん、毎日毎日、朝日が昇るたびにFuck the worldを意味するため息ひとつを吐き捨てて、重い身体を引き摺って玄関を出たら、最後のプライドを守る為に気力を振り絞って街を踏んづける様に力強さを自己に誇示して精一杯のエンパワメントを試みながら、労働という長期的な自殺に勤しむんだよな!』次男的気質は自我の方向性が定まって熱を帯びていくと、それを相対化するべく次の次男をマトリョーシカのように生み出して、徹底的に茶化して冷や水を浴びせにかかる。
殆どの熱狂は、一時の感情に任せた瞬間の煌めきでしかない。それは既存のシステム(秩序)に対する不満を吐き出し、日々の溜飲を下げる儀式でしかない。それは目的如何に関わらず、結果的に既存のシステムを持続可能なものにする循環機能として働いてしまう。人格分裂という比喩が指し示す社会病理とは、資本主義が血肉となって根付き、感情のコストと遺伝子の生存戦略による合理的選別という諦めの果てにしか接続の歓びを見出せなくなった非連続性の喪失なのだ。
境目を沢山作ると視界が鮮明になり優劣が可視化されてグロテスクになっていく。清潔で穏やかな世界は、あらゆる認識上の越境によって、全てがドロドロに混ざり合ったモヤの中で存在する。
世界から国境を無くせば、人類から土地を奪い合う争いは消えるのだろうか?所有という概念を越境出来れば、男女のジェンダーという概念を越境すれば、ニンゲンとそれ以外の生命という概念を越境すれば、
地球と宇宙という概念を越境すれば、生と死という概念を越境すれば、穏やかな光に包まれて凡ゆる苦しみから解放されるだろう。
全てについて記号化する事はあまり意味を持たない。人間の脳が、全てについてのクオリアを思い浮かべるという莫大な認知負荷に耐えれないからである。
人間が許容量を超える認知負荷というストレスを与えられると、細分化された現実に対して解像度を落とし個々ではなく全体をぼんやりとした現象として再解釈して対処するか、意図的に差異を単純化して細かな差異を無視して、二項対立的世界観に閉じる、などの手法を人間は快(Fine)だと感じる傾向は、バイオロジカルに裏打ちされている。
レイヤードされたコードを自由に揺蕩う風になれば、認識という私達の全てを越境した存在で居られる。
カルト宗教の教祖という存在が教えてくれるのは、コミニケーション能力(権力の一種)とは、世界から人類誕生以前から存在した秩序を陰謀論的発想力で見出し、観測に基づく因果推論を行い美しく辻褄を合わせ、情報価値に重み付けを付与するストーリーテリングの技法であるという事だ。
安心して欲しいのは、私はそれを悪用したいと欲望しない。私には宗教的な略奪愛の趣味も無ければ、そもそも一個人に対しての重み付けを行うという普遍性を欠いた性質の行為にも意味を見出せていない。
どこまでもグロテスクな実感を伴う近主観的な現実を、どれだけ遠くから投射出来るかという実験に人生を捧げると決めたのだ。生と死の境目が曖昧になり、既成概念上の人間性という世俗の柵を手放し、少しずつ遠客観的な感覚に陥っていくのが心地良い。人類史的にも何の特殊性も見出せない没個性の凡人でしかなかった私が、滑り落ちる様なスピードで、現代の普遍性をカリカチュアライズ(劇画化)した、最も批評的な存在へとメタモルフォーゼ(変身)していく。
つまり、何処までもノンポリティカル(凡ゆる人工的権威から重み付けされていない状態)であるのに、快楽という(唯一、人為的な意思が介入しない偶然の偏り)原始的なシステム(秩序)のみの重量を援用し、現実を歪める質量を持った無色透明の劇物なのだ。
扁桃体という脳の原始的部位だけに偏って発達した脳を爬虫類脳(反射脳)という。爬虫類脳つまりワニ脳。私は日本人ではあるのに、唯一完全なワニ脳を持ち合わせているのでワニ差別主義者には当てはまら無い。まあ、そんなこともどうでもいい。
「僕は、ただ自分(完全な正常者)が君たちにとって、どれだけ歪んでいるか見てほしいんだ。」
小学校の頃に共産党員である親の実家に貼ってあった意味深な絵(マレーの落穂拾い 複製画)の意味を尋ねたら、その質問は私が持つ思想的認識法、唯物論を基底としたプラグマティックな視点を通せば、労働者の過酷さを示すシーンを切り取り、ただ写実的に描いた表現がどのような意味で受容されるかという質問へと自然に変換されると返された。
農夫の特に過酷な労務作業を誇張なしに描写するという行為に対しては、労働賛歌だろうが雇用関係の暴力性だろうが、鑑賞者にとってお好みの対極に位置する思想的意味を見出す事が可能ではある。とすれば、作家が絵に込めた真のメッセージを持っていたとしても、それは絵の果たす機能では無い。つまり、そのメッセージが表現として織り込めず、十分に世界に対して重み付けの効果を果たせない場合には、プラグマティストにとって、現状変更の訴求性を全く持ちえない無価値な情報として処理される。
その画(メディア)が写し出す農夫の切り取られたブルース(哀愁)の価値は、どれだけ大衆の感性に深い同情心を喚起させ労働を強いる加害性を訴えられるのか、という純粋な実務能力によってのみ齎せられるのだ。唯物論者でありプラグマティストである祖母が認識可能な実効力という唯一の意味は、大多数の鑑賞者のエゴによって決定されており、絵そのものに対して何の感情も持っていない。
祖父母はドーパミン系統の娯楽を全てポルノと呼び、セロトニン系統の娯楽を全て宗教と呼んでいる。ポルノに分類されるものを例に出すと、ポルノ(性的娯楽)、ジャンクフード、ギャンブル、孫、等である。宗教に分類されるものは、宗教(物理的な存在証明が不可能な物)、一親等以内の血縁関係、地元の友人、味の薄い料理(塩と砂糖と油と旨み調味料が少ない)等である。
先鋭化された唯物論者兼プラグマティスト同士のコミュニケーションであるという文脈が共有されているという前提があれば、その場におけるコミニケーションの解は計算不可能な混沌(カオス)ではなく、これ以外ないという一つの正解が存在する。
例えば、祖父母からお年玉を受け取るというイベント時には、自らのポルノとしての役割を冷静に認識すれば、嬉しみの絶頂表現として白目を剥きながら失禁するという非日常行為が、極めて正常な論理的思考が導く、最適解として実演されるのだ。
しかし、唯物論と陰謀論という相反する性質を無理やり固めた自己は、普通の他者から見るとあまりにグロテスクで醜く、同じ人間だと認めることすら耐え難い存在であるらしい。大好きな物の大好きな要素を厳選し切り刻んで貼り合わせたら、こんなにも世界から拒絶されると思わなくて驚いた。どうやら、私は現時点で開かれたエンターテイメントとは真逆の性質を持つ、究極的に個人的な存在に成り果ててしまったみたいだ。これから私が親愛なる貴方達にとっての害悪を撒き散らそうとしているという酷い誤解を、一つ一つ詳らかにして行くことで払拭していこうと思う。
唯物論的思考というのは言語が思考を形成しているという性質上、効率の為に多量の語彙を捨てるわけであるから、必然的に言語間の繊細なニュアンスの差異を認識出来なくなり、現実のカオスに対応する深い思考には適していない。過剰な装飾的言語の副作用で、単純な問題にさえも答えを出せなくなった人間に対するリハビリや、極限状態に追い込まれて判断のスピードが求められる時などに、限定的に有用な思考法である。全てにおいて唯物論を適用することを推奨している訳では無いのだ。
唯物論という抽象的な概念をイメージしやすくするために、唯物化という行為をフルメタルジャケットという映像作品のメタファーに仮託して説明を試みよう。
フルメタルジャケットの序章は、甘やかされて育てられた劣等生のデブがコンサータ飲んでフルメタルジャケット(完全鉄製武装)状態に変身して無双するって話なんだけど、まあ端的に言えばフルメタルジャケット(完全鉄製武装)という概念は、唯物論化(メタ意識化 )もしくは資本主義化(効用の最大化)軍人や典型的な労働者としてシステムの望む形に変えられていく暴力性のメタファーなんだよ。ラストシーンでは幼児性やピュアネスを表すミッキーマウスのマーチが流れて武装解除された事が示唆される訳だけどさ。暴力性を持ち出した事に一才の批判意図もないよ。そもそも暴力という概念自体に罪深い性質は無く、根源的な行為の一つでしか無い。
寧ろ、極度に洗練された暴力そのものに美しさを見出せないのは、文明の毒に蝕まれ感性を殺してしまったからだよ。
そして更に解像度を上げるために、フルメタルジャッケットと対照的なフォレスト・ガンプという映画についても説明しなければいけない。その映画が表現したのは、純粋さを一切捨てずに育ち切り、建前と本音を使い分けなければいけない実社会と乖離した存在が、その特性故の苦難を受けながらもどこまでも自身を貫く様が注目され、大衆から評価され幸せになっていくという理想像だった。それは、資本主義の需要さえ生まれれば底なしの包摂性を持つという紛れもない美点を表現している訳だよ。それは異常性の発露が、ひたすら走り続けるという無害かつ、分かりやすい凄さという普遍的なコンテンツ能力を持ちあわせているという厳しい条件下でしか観測されない奇跡の現象であるから、再現性は低く、広く行き渡る救いでは無い。でも人間の感覚というものは相対的なもので、須くを照らす大きく柔らかな光よりも、暗闇に差し込む一筋の眩さに美を感じてしまうものだ。資本主義には誰もが無関心ではいられず、愛しみと憎しみという両極端の強い感情を抱かずにいられない。というのも資本主義というのは、素朴に生活で実感される法則性が貨幣によって具体的に可視化されたに過ぎない。つまり資本主義は世界そのものであり、往々にして私たちのピュアネスと素朴に一致してしまう。
資本主義について考える時、いつも人生で最も暗い気分だった時の事を思い出す。あの時は人生における全ての仕組みを理解してしまったと感じて、これから先の長い人生でこれ以上想像を超えるような高揚は絶対にないと確信してしまったんだ。とにかく全てが種明かしされた作り物に感じて、何も面白く感じられ無かった。その時に匿名掲示板の面白GIFを貼るスレッドで見つけた、一本の3秒動画が人生を覆っていた重苦しい閉塞感から解放してくれた。貧民街にいる肋骨剥き出しの子供が、家畜の豚に斧を振り下ろして上半身と下半身を真っ二つにする、たった数秒の動画だ。腹を満たさなければいけないという切迫からくる、一切気後れのない無邪気な透き通った強さは、存在に対する揺るぎない肯定で溢れていて、世界がいつの間にか喜びで満ちていた。
恐らく、その時が初めて資本主義の美的側面を体感した瞬間だったと思う。たとえその光が真面に浴びたら失明してしまう程に暴力的な物だったとしても、それでも全然構わない位には、その一筋の眩さに焦がれ続けている。
このインスタントな快楽で飽和した国では、劇的な瞬間に遭遇する事は難しい。だから何とかなんてことのない日常から光を見出して退屈を凌ぎ切り、じっと待つしかない。これからその日常においてその使用頻度の高さから最も重要だと言っても良い退屈の凌ぎ方について教授しようと思う。まずは実際にやって見せよう。
まだ私が京都で学生をやっていた頃に、天気のいい春先だったので鴨川沿いを散歩してたら、花見に来てた大学生が自分の局部を露出させたのを見た。
その学生が行為後に、『やってやった。どうだ!やべえだろ?』と言わんばかりのしたり顔をして、仲間と一緒に馬鹿笑いをした時、最初はその彼の無邪気さ(ピュアネス)に対して、憎たらしく思った。
花見でチンコを出した彼の様に、社会的に評価されにくい方向性で、過剰な蛮勇(アニマルスピリッツ)や外連味が溢れ出してしまう人物がネット社会の発展により、広く多様な形で鑑賞可能な時代へと突入している。
彼らは能力さえ伴っていれば、政治家やインフルエンサーや起業家として大成するために、不可欠な性質を備えていた。神様の悪戯で、数個のピースが上手く嵌らずに、貶められた切ない存在だと決めつけるのは、一瞬を切り取りレッテル貼りをして単純化し、とにかく分かった気になって安心したい、人間の複雑性から逃避してしまう、私自身の知的な弱さのせいだ。
彼らは行為の前までは、自家中毒を患い、フラストレーションを溜め続け、とうとう抱えきれなくなったやるせなさが爆発した、そんな革命的な一瞬を垣間見ただけだったのかもしれない。
そう考えると憎しみはすっかり消え失せて、不器用な反逆の表現に対する愛おしさだけが心に残った。
不可知の事象については、曖昧な状態に留めて色々な可能性を想像した方が、より豊かな感性を生活の中で育める素晴らしい選択であるに違いない。
とは言ってみたものの、奥底で何かその耳触りの良い結論に、引っ掛かるものがあった。
『あっそう言えば、ヤツは絶対に勃起していなかったぞ!』
興奮のボルテージの指標となる、局部の隆起という状態は観測されなかった。
それなら、革命的瞬間だったという説は、棄却される筈だ。
「勃起してなかった。勃起してなかった。勃起してなかった。」譫言のように三度呟いた。
しかし、よく考えてみると興奮状態にある時に局部の隆起という現象が起こりやすいと言う相関関係は存在するが、絶対的な法則では無い。
それでも何故か勃起していなかったという薄弱な根拠から立脚するロジックへの固執をやめられなかった。
白々しい純真ぶった分からないふりを辞めて、正直な理由を自白すると、チンコを出した奴が、最終的な判決を下される時に、勃起していなかったと言う事を根拠に罰された方が、理不尽で不条理で現実の気怠い予定調和をぶっちぎっていて、痛快だからだ。
「やってやった。」と思っている奴に、勃起させてからチンコを出していれば無罪だったとする事で、度が過ぎたからでは無く、寧ろ刺激が足りなかったから咎められたとなれば、アウトローな価値観からも評価されない、そいつのあらゆる欲求が満たされずに終わる世界線が到来したらどんなに嬉しいか。
その甘美な虚構を信じている瞬間にだけ、本当に新鮮な空気が吸える気がする。
それは単なるドーパミン欠乏の症状でしかないのだが、息継ぎみたいに馬鹿な妄想に縋る自分を俯瞰で見ると、何て滑稽なんだろうと少し可笑しな気持ちにさえなれた。自己憐憫に浸る快感を欲さない訳でも無いが、退屈な現状維持には断固として反対する。いっそ、強力な光で焼き切られて一瞬で果ててみたい。その為に、皆の心の奥底で燻り続ける曖昧な理想の輪郭が勇気の伝播によって徐々に鮮明となり、冷めることのない熱狂に満ちた日々が訪れる事を心から願っている。
人生という最後に0をかけると分かり切っている計算問題の気怠い前段に、華やいだ意味を見出さなければ人生は耐え難い苦痛へと変貌する。全てが無意味だという良識の上で、腹が減るのも、性欲が湧くのも、睡魔に襲われるのも、三大欲求の全てを治療されるべき疾患と捉えて、決定論的認識に抗う術を模索して行く過程に喜びを見出せないのならば、俯瞰の意識を手にした段階で既に詰んでしまっている。
通俗に抑圧される営みを尊ぶのは、個としての可能性に対するニヒリズムである。飯を食わなくて良くなれば消化にエネルギーを費やさなくても良いし、性欲が無かったら無駄な見栄のために余計な資産を浪費しなくて良いし、皆が寿命の縮まないショートスリーパーを羨ましいと思っている。この三大欲求という凶悪な病魔、諸悪の根源が治癒すれば、寧ろ全ての社会問題が解決すると断言したっていい。
水槽の脳として生きるのは、メタゲームとして思考すれば人類にとっての究極の理想形だと皆が理解することが、現時点として地球に対して害悪でしか及ぼしていない人類が、遥かに倫理的な存在となる唯一の政治的方法だよ。
この主張は、決してメタファーや露悪的な誇張表現では無い。つまり先にセンセーショナルな例を提示して、後の説明で実生活にある身体性が機能していない場面を切り出し、拡張した比喩表現として水槽の脳と託けるような、やり尽くされた痩せた発想の類では無い。仮にテクノロジーが進み、VRとモーションセンサーで移動する足場を使って異次元の没入感を実現したとしても、腹が減れば現実に帰る必要性があって、そのギャップに失望してしまいようじゃ私の理想とは程遠い。身体性を完全に捨てた水槽の脳こそが理想形だね。
虚構の世界で全ての望みを叶えて幼稚な全能感に浸りたい訳ではない。どれだけの成果を成したとしても「でもおれ水槽の脳なんだよな、もし本当の姿を見られたら脳のシワ少なって笑われるかも、」だとか俯瞰の意識を働かせ続けて、何でも出来る世界であり得ない悩みを抱えて少しブルーな気分にずっと浸っていたい。
なんなら、水槽の脳の中で見る夢を水槽の脳として生きる人生にしたって良いしね。それって誰もやらなそうだし、なんだかとても愉快じゃない?とにかくどうせ悩むなら、新しいことで悩みたい気分なんだ。
自分が感知出来ないのなら、コメディスクール出身のお調子者が使う小道具として、極度にシワが少ない僕の脳が使用されたって構わない。
以下 脳内小芝居
親に僕の、恋人(水槽の脳になった自分)を紹介したら、親が嫌な顔したんだよ。親の世代だともしかしたら偏見が残ってるのかと思ったけどちゃんと話し合わなきゃってさ。
だから彼が脳になる前の身体的性別が男性だったことが、そんなに気に食わないのか?って聞いてやったんだ。
そしたら、それはどうでも良いけど。彼の脳表面に"シワ"が少な過ぎるのが嫌なんだってさ。
つまり、シワの少ない彼の脳はまるで、"ネオテニー"で、ロリータコンプレックス(精神障害)が偏愛する性質みたいだから、世間体を気にしてしまうらしいね。
まぁ身体適合手術を受ける前の彼は、50オーバーの初老男性なんだけどね。(一瞬手に持った脳の水槽と見つめ合う素ぶりを見せて、観客に対して大袈裟に肩をすくめておどける)
母親が言うには、貴方は50オーバーの同性と付き合ってたとしてもピュアネス(無垢性)という成熟の過程で削ぎ落とされる物を象徴する属性を持つ個体を愛している時点で、当然周りからすれば、ロリコンと判別されるんだってさ。傑作でしょ。
もちろん俺だって論理的に反論したぜ。ロリータコンプレックスが病気だと判断されるのは、未成年と成人が性的関係を結ぶのが犯罪だと国が指定しているからだろって。その理由は、身体的、精神的に成熟しきっていない人間の権利を保護することを名目として、敢えて二級人間もしくは特権階級としての扱いを課し、自由意志によって決定出来る権利を制限しているんだ。
しかし、成熟という抽象的な概念における客観的な指標というものにおいて何が的確であるかなんて誰にも分からない物だからこそ、年齢という落とし所を付けた訳だろって。それに異議を唱えるなら、それなりの理由が無ければ納得できないねってね。
こともあろう毎にのうのうと、「だって、脳のシワが少ないでしょ。」なんて抜かしやがったんだ。そこでちょっと流石にムッときて、強く言い返してやったよ。
短絡的なルッキズムを根拠とする言説なら、良識ある文明人としては反論する価値がないと判断せざるを得ないね。と。
そしたらすかさず、脳のシワで判断するルッキズムは、唯物論者で虚無感に由来する享楽主義者の貴方が大好きな、精神的、物理的な成熟を示す指標として現時点で最も有効な、観測に基づく物理的な兆候って奴じゃない?ってね。
そしたら、自分にロリコンという評価を下されるのは適格であると納得しちゃってさ。そこで新しくレッテルが貼られ、また更に深く外部の秩序に組み込まれたと捉えてしまうのは不自由な後ろ向きの発想でしかないよ。だって現在に焦点を当てれば、それは間違いなく皆が待ち侘びてた、無関係を装った二点の繋がりが暴かれる痛快な一撃、血の巡る瞬間って奴でしょ。
フラットアーサー(地球平面論者)の論説は、科学的事実として間違っていても、一般大衆の主観的な感覚値と素朴に一致している。理性よりも感性に訴えるのは、アジテーション(扇動)の効用を最大化する時に、最適な手段と言っても過言じゃない。マイナスイメージは解釈で柔らげて、プラスのイメージは増幅させればいい。存在自体が後ろ暗い社会的な存在との類似性を正面から指摘される瞬間は、実質的な死を宣告されるような恐怖を感じてしまうだろう。
まあ刺し向けられた幼児性の愛好という性質を、生きてさえいれば誰でも獲得できる歳月の差でマウントを取りたいという卑屈な欲望だと解釈するか、自身の生得的な性質が凡ゆる通俗に適していないが為に、無垢という唯一受容の可能性を孕んだ性質に縋らなければいけなかった悲痛なブルースと捉えるかで嫌悪の値は変動するのさ。
因みに支持率激戦のイネ科穀物の中でもダントツに小麦がヒトに消費されており、更にそれの最もメジャーな加工先として選ばれているパンが優越している点は、恐ろしく手軽で一度加工を済ませれば熱調理を施さなくとも品質を保ちながら食せるという事だ。フランス人ですらhomme qui mange du pain(パン食い男)と形容せざるを得ない極東最高峰のパン食いを自認する私は、驚嘆する事なかれ、机の上に散乱させた甘いパンだけで生活に必要な全てのエネルギーを摂取している。ここニッポンでは、パンといえば朝食を想起させる文化が根付いている。
つまり、その逃れられない不文律のルールをメタ認知して利用し、全ての生活を朝に埋れさせたのだよ。急かされ、煽られ、忙殺される労働者の朝が変質し、やがて昼と夜を呑み込み、心地よい永遠の朝で満ちていく痛快さをひしひしと感じて欲しい。
ほいよ、じゃあ最後に。核戦争反対っ!(力強く拳を掲げ、一瞬の含み笑顔を浮かべた後、冷酷で残忍な鋭いターンを決め、真っ黒な背中を見せながら、颯爽と舞台上から去っていく。)
(脳内小芝居、Fin.)
と、このようにだね、何も気に病む必要は無いのだよ。思索に耽る肉塊と化せば、劇的な邂逅まで色褪せた景色はただ無力に通過して行くだけなのだから。
