泣いてはいけない
息子がお気に入りのトミカでガチャガチャ遊びながら、
「ありがとう、ありがとう、掛け声をありがとう」
と運動会で歌った歌を歌っていた。
年のせいか、
「運動会、よかったなあ。しかし、こんな歌を練習させるなんて先生たちも"あざとい"ナァ」
などと心の中で皮肉をつぶやきつつも、まんまと術中にはまって、
ふと涙が流れそうになる。
しかし、気を付けなければならない。
涙もろいからと言って、「泣いてはいけないタイミング」というのが人生にはあるはずだ。それは「男たるもの」とか根性論の類ではなく、
「そんなタイミングで涙を見せたら相手が混乱するでしょうが」という、「コミュニケーション破綻」の意味で、である。
家のなかで、息子が歌っていてふとうるうるきてしまうのだったら、まだよい。思い出し笑いよろしく思い出し涙みたいなこともあるから、厄介なのはそれだ。いろいろ想像して、怖くなってしまった。
気持ち悪いは気持ち悪いが、思い出し笑いなら、まだ言い訳がきく。
「いや、ちょっと面白いことを思い出して」で済む。人の感情とは普通、物事やコミュニケーションへの「反応」「反射」として起こるはずだ。
ただ、最近はハンズフリーで電話をする人も増えたからか、一人で歩きながら笑っている人を見ても、人はそれほど驚かなくなった。ちょっと前なら「頭がどうかしてしまった人」として映っていたが、「何かいいことがあったのだろうな」→「あ、電話してるのか」と、だいぶ市民権を得てきた。世の中は、笑っている人間には寛容になってきたのだ。
だが、思い出し涙はそうはいかないと思う。
無表情の中年が、急に、目を潤ませている。
「息子が運動会で歌った歌を思い出しまして」と説明したところで、相手はかえって困る。困らせてはいけない。説明すればするほど、状況は悪化する。これは、かなりお互いに不幸な状況だ。
厄介なのはどこで来るか分からないことだ。
ひとりでエレベーター内で、だったらまだいい。
開いたドアから涙を拭きながら出てくる中年を見かけても、人はそれなりにいろいろストーリーを想像して納得しようとするだろう。
立ち食いそばを食いながら、もまだいい。熱い湯気を浴びながら涙する中年男性に、人は同情の目を向けるかもしれない。
ただ、試着室はダメだ。
カーテン一枚を隔てて、店員さんが外にいる。
「いかがですか」と聞かれる。
カーテンを「シャッ!」とあける。
客が泣いている。
サイズが合わなかっただけでは子どもだってこうはならない。
「‥‥お、お客様?」
「い、いや、違うんです、これは、あの息子が…」
と、言えば言うほど意味不明だろう。
私はなにも買い求めず一目散に店をあとにするしかないのだ。そして二度とその店を訪れることはできないだろう。ユニクロとかだったら困るよ。
世の中には、答えなければならない、定型の質問がある。
たとえば、床屋の「かゆいところはございますか」だ。
これは、世界でいちばん、「はい」と答えづらい質問の部類である。かゆいところは、たいてい、ない。あっても、まあ、いい。なくても、困らない。だからこそ、何も考えずに「ないです」と言えばいい、安全な質問のはずだった。
それなのに、そのタイミングで、来る。
「かゆいところは、ございますか」
「……いや、ない、です、グスッ」
声が震えてしまったあとに、グスッはまずい。
「お客様を、頭のかゆみの質問で泣かせてしまった」
とはならないはずで、美容師はきっと別の可能性を探るはずだ。
「だ、大丈夫ですか?」
「いや、あの急に息子の運動会を思い出しまして…」
こうやって、行きつけの美容院を失うのだ。
コンビニも、危ない。
「袋、お入れしますか」
「……このままで、いいです」
客が泣いている。店員さんは、手を止める。
目の前の客が、おにぎり一個を、握りしめたまま目を潤ませている。
このままでいいと言いながら、何ひとつよさそうに見えない。
「あ……はい、レシートは」
「……ダイジョブ、です」
ダイジョブって言っちゃっている。
こうやって私は行きつけのコンビニを失うのだ。
行きつけ先で思い出し泣きが発動すると、人はその行きつけ先を失う。
不必要かと思われるほどの何気ないやりとりは
「私たちは正常です」
ということを確認しあうためのまさに「儀式」なのだなあ。
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