4コマ無画⑨①
【4コマ無画:まばたきの深淵】
「瞬間」と「刹那」、どちらがより短い時間なのか。
日常では同義語として扱われるこの二つだが、言葉の「語源」を辿れば、そこには明確な主従関係と圧倒的な密度の差が存在する。
まず「瞬間」という言葉。その漢字を紐解けば、「瞬(まばたき)」の「間(あいだ)」、すなわち一度まばたきをするのに要する物理的な時間を指していることがわかる。
これに対し「刹那」は、古代インドの最小単位「クシャナ」の音写であり、これ以上分割できない時間の究極の粒を意味する。
つまり、我々が何気なくしている「まばたき」という一瞬の動作の中には、実は数多の「刹那」がひしめき合っているのである。
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では、その「瞬間」の中には、一体どれほどの「刹那」が隠されているのか。
多くの説があるが、今回は以下の説を例にしたい。
仏教の論書『大毘婆沙論(だいびばしゃろん)』などの定義に従えば、指を一回弾く時間である「弾指(だんし)」は、二十回の「瞬目(まばたき)」に相当するとされる。
そして、その「弾指」一つの中には、六十五もの「刹那」が詰まっているという。
これを単純な算術で割り出せば、一回のまばたき、すなわち「一瞬間」の中には、約三・二五個の「刹那」が収まっていることになる。
我々がパチリと目を閉じて開ける、その無意識の動作の間にさえ、世界は三回以上も「刹那」というものを繰り返しているのだ。
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「瞬間」が人間の肉体的な動作を基準にした言葉であるのに対し、「刹那」はそれをさらに解体し、物質や意識の最小単位まで追い込んだ、極限の知的探求の結果である。
そう考えると、我々が「一瞬」だと感じている時間は、実はかなり「どんよりと長い」ものに思えてこないだろうか。
まばたき一つ。
そのわずかな隙間に、宇宙の理(ことわり)は三回以上の更新を終えている。
我々はそのあまりの速さに気づくことすらできず、ただ「一瞬だったね」などと、悠長な言葉で片付けてしまっているのである。
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さて、だいおじの日常に、この「三・二五刹那」の視点を持ち込んでみる。
一回のまばたき。その間に、私の肺に吸い込まれた紫煙は肺胞を駆け巡り、アルコールは食道を焼き、脳内では「もう一杯」という欲望が三回は生まれ変わっている。
科学的な一秒よりも、不明でいて明確な「三・二五刹那」という物差しの方が、どうにも私の自堕落な業を正確に測ってくれるような気がしてならない。
「瞬間のうちに、三回は反省しろ」
そんな仏の声が聞こえてきそうだが、生憎と私のまばたきの瞬間の中の刹那は、三回とも「次は何を飲む?どのツマミを食う?」という煩悩に占拠されている。
刹那の数だけ煩悩は生まれる(笑)
追記:そろそろ連続投稿100日かなと思っていたら、昨日でした(笑)
出遅れプチ自慢🤣
いつもありがとうございます。
