【短編小説】雨の日に咲くもの
スーパーの入り口にある傘立ては、今日も賑やかだった。
雨を連れてきた傘たちが、持ち主を待つための、小さな待合室だ。
人間たちは知らないが、傘立ての中では毎日、小さな会議が開かれている。
六月のある日。
スーパーの入り口に置かれた傘立てには、十数本の傘が集まっていた。
黒い傘。
透明なビニール傘。
花柄の傘。
少し骨の曲がった傘。
みんな雨に濡れた身を寄せ合いながら、持ち主を待っていた。
「今年も来たな」
傘立ての常連である黒い傘が言った。
「梅雨ですな」
隣のビニール傘が答えた。
梅雨。
傘たちにとっては繁忙期である。
冬は雪国以外では暇だし、夏は日傘に主役を奪われる。
秋は台風で酷使される。
だから梅雨だけは特別だった。
ようやく出番が来る。
ようやく役に立てる。
そんな季節だ。
だが、その中の新人は少し様子が違った。
「正直、複雑なんですよね」
コンビニで買われたばかりという透明な傘が言った。
「何がだ?」
「だって皆さん、雨が降ると嬉しそうじゃないですか」
その言葉に傘たちは顔を見合わせた。
「まあな」
「そりゃあ仕事だからな」
「でも人間は雨を嫌がりますよね?」
誰も答えなかった。
確かにそうだった。
朝からため息をつく人。
靴が濡れると文句を言う人。
洗濯物が乾かないと嘆く人。
傘たちは雨で活躍できる。
だが、その活躍は人間の残念な気持ちの上に成り立っていた。
「なんか申し訳なくて」
新人の声は小さかった。
その時だった。
傘立ての端にいた一本の赤い傘が口を開いた。
かなり古い傘だった。
持ち手の塗装は剥げ、骨も少し歪んでいる。
「そうでもないよ」
「え?」
「私は雨の日が好きよ」
赤い傘は静かに言った。
「昔、持ち主が高校生だった頃ね」
みんな耳を傾ける。
「学校帰りに、好きな子と相合傘をしたことがあったの」
傘たちがざわついた。
相合傘。
それは傘なら誰もが一度は夢見る役目だった。
「二人とも照れていてね。肩がぶつかるたびに少し離れて、でもまた近づいて」
赤い傘は懐かしそうに続けた。
「雨が降らなければ、あの日はなかった」
「人間は雨を嫌がる。でも雨の日にしか起きないこともあるのよ」
窓の外では細い雨が降っていた。
急ぐ人。
立ち止まる人。
軒下で空を見上げる人。
「雨の日は世界が少しだけゆっくりになる」
赤い傘は言った。
その時、自動ドアが開いた。
ひとりの女性が買い物を終えて出てくる。
迷うことなく赤い傘を手に取った。
「あ」
新人が声を上げる。
女性の髪には、少しだけ白いものが混じっていた。
「持ち主ですか?」
「そうよ」
「高校生じゃないですよ?」
「当たり前よ」
赤い傘は少し笑った。
「三十年も経ったんだから」
新人は少し迷ってから聞いた。
「じゃあ、その時の相手と結婚したんですか?」
「しなかったわ」
「えっ」
「卒業してね」
赤い傘は懐かしむように言った。
「会わなくなったの」
「でもね」
女性が赤い傘を開いた。
少し色褪せた赤が、ふわりと咲いた。
「三十年経っても覚えていることがある」
「それだけで、十分じゃないかしら」
そして持ち主とともに雨の中へ出ていった。
新人のビニール傘は、その後ろ姿を見送った。
外では相変わらず梅雨の雨が降っていた。
しとしとと。
雨の日にしか咲かないものも、この世界には、あるのかもしれない。
