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この世界からもしも色が消えたなら

 果たしてどんな景色が見えるのだろうと想像してみる。意外にも色彩をなくした後、純粋な輪郭だけが残り、人は何か余計なことに囚われることもなく自分にとっての正しさは何かをみることができるかも知れない。彩られた景色によって私たちはいろんなものを認識することができるけれど、溢れ出す情報の波に溺れそうになって、何が正しいかを見失ってしまう。

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 ふだんはだいたいフィルムカメラで撮影するときには「業務用100」というやっすいフィルムを使うことが多いのだけど、気が向いたときには目の前の景色から意図的に色を奪うモノクロフィルムを使うことがある。

 ちなみに最近懐古主義に伴って、俄にフィルムカメラブームが来ているらしい。そのくせフィルムを多く販売している富士フイルムは、年々商品のラインナップを減らしていく。いつかも言ったかも知れないけど、需要があるのにある意味時代の逆行を辿っている気がする。

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 さて、話を戻そう。

 時々どうにも色彩のある日常に身を置いていると、どうにも息苦しくなるので強制的に色を奪ってしまおうぜ、という気持ちになる。

 情報が少ない分、物事がシャープに見えるし、それから純粋に写真を撮っている上で、面白い景色は何かということを気づかせてくれるからだ。写真教室に通っている友人曰く、入ったばかりの頃は白黒で撮りなさいと言われるらしい。だから、写真の上達という意味でも理にかなっている。たぶん。

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 私たちはだいたい日常の8割を視覚で補っているらしい。その分入ってくる情報も膨大だから何を取捨選択するかは悩ましいところ。確かこの日は外で雪が降っていた。白黒だから雪が降っていることは見えづらいけど、不思議と物事の輪郭がだんだんはっきりしてくる。全体に映されたものたちの影が見える。朧げな世界の中で、静物たちは何を思うのか。

 本当に寒い日で、私は友人とともにぶるぶる震えながら来た道を戻って行ったことを思い出す。

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 写真は当然ながら自ら言葉を語ることはない。従って受け手側が積極的に心を開いてそれが何を語りかけようとしているのか耳を傾けない限り応えてくれることもない。しかも難しいことに、人によってそれらが発するイメージはひとつではない。

 思えば写真を撮るようになったきっかけも、同じように私がきちんと自分の中にある言葉を形にできなくてもがき苦しんでいたからだった。 

 世の中はひたすら思い通りにいかないな、と日々生活している。物語の中にあるような一発逆転の出来事なんてそうそうない。ご都合主義で進んでいく小説は、どこか頭で理解しようとするたびに少しずつちぎれていく。もっと気楽に日常を楽しい楽しいと言いながら生きていたいと思っていても、その通りに突き進んでいくのは難しいみたい。家に帰って、餃子とモッツァレラチーズとトマトと白ワインを片手に「諸行無常」と呟くと、パチンと何かが弾けた気がした。

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 ぼんやり街中を歩いていると、人の息遣いがどこからか聞こえてくる気がする。規則正しく、ゆっくりゆっくりと呼吸音が聞こえる。

 掃除機をかけている人の姿が見えて、こうしている間にもみんないつもと同じように当たり前の顔をして生活をしているんだな、と思う。彼には背負った色彩がない分、妙にリアルな暮らしの有り様を覗いているような気分になって不思議な罪悪感に囚われる。ゆらゆら揺れる蛍光灯に中でじっと暗闇を見つめる人がいるなんて思いもしないで、きっと楽しそうに鼻歌を歌っていることだろう。

 たぶん、色が日常から消えたとして、最初はみんな喜ぶかもしれない。些末なことから解放されたと手をあげてバンザイして、やったやったと大きな声で叫ぶ。でもいつか、物足りなくなる時が来るんだろうな。

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 また気が向いたときに、白黒写真載せたいと思います。地味に後から振り返ったときにワクワクした気持ちになるのです。

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