パレスチナの旅 〜 1983年秋 (写真, 旅日記 ほか)
今日のタイトル上の写真は 1983年9月29日に筆者が撮影, エルサレム(アル=クドゥス)の旧市街にあるダマスカス門の前を歩くパレスチナ人たちを写したもので, 右奥に写っているのは欧米中心のツーリストの団体。なお, 標題の「パレスチナ」は「48イスラエル」(については以下の「前説」にて)を含む。
前説
前説
筆者は 年齢にして22歳から23歳の時期, 1983年から翌1984年にかけ, 当時のソ連・欧州・中東(「西アジア」)・アジア諸国を旅した(本章次節に各地ごとの旅行記へのリンク集を掲載)。
パレスチナ及びイスラエル(後者の「イスラエル」は 筆者が便宜的に「48イスラエル」と呼ぶ, 1948年「建国」のイスラエルが 以降支配下に置くテル・アヴィヴ, ナザレ, ハイファ, 西エルサレムなどの地域を指す)を旅したのは, 1983年9月から10月にかけての 3週間ほど。
本 note 投稿では, その旅において訪れたパレスチナ(及び上述「48イスラエル」*1)各地の旅行記へのリンク, 写真の一部等を掲載する。
なお, 念のため先に書いておくと, 本 note 冒頭で掲載写真の説明の際に触れた「エルサレム旧市街」は「東エルサレム」に含まれ, この地域は 1967年6月のイスラエル(1948年「建国」)による奇襲攻撃(「第三次中東戦争」, 結果, イスラエルが東エルサレムを含むヨルダン川西岸地区とガザ地区, さらにエジプト領のシナイ半島およびシリア領のゴラン高原を占領, 11年後の1978年「キャンプ・デービッド合意」によりシナイ半島のみエジプトに返還)以降, イスラエルの占領・支配下にあるが, 「東エルサレム」のイスラエル領への併合は 国際社会から強く非難されており(*2), 2017年「第1次トランプ政権」以降のアメリカ合州国を除くほぼ全ての世界の国々はこれを認めていない。
*1 この「48イスラエル」は いわゆる「イスラエル」国(1948年「建国」, 従前 約30年間「イギリス委任統治領パレスチナ」だったその域内に, 当時の設立間もない欧米主体の国連による, 当時の同域内のアラブ系・ユダヤ系の人口比率や土地所有比率を全く無視した明らかに不当・不公正な国連パレスチナ分割案とシオニストによるアラブ系住民 [パレスチナ人] への民族浄化キャンペーンや第一次中東戦争により領土を獲得した人工「国家」)に当たり, したがって その「領域」は, 2017年「第1次トランプ政権」以降のアメリカ合州国を除くほぼ全ての世界の国々により認識される「イスラエル」国の「領域」(その範囲)と同じである。
その意味では「イスラエル」とシンプルに呼んでもいいのではあるが, しかし, 上記のような「国」の成り立ちの異常さに加え, 更に 1967年6月の「イスラエル」による奇襲・軍事侵攻以降 同年11月の国連安保理決議242 をはじめとする複数の国連安保理決議に逆らって既にこれまで半世紀以上の長きにわたり「イスラエル」が占領している土地(東エルサレムを含むヨルダン川西岸地区, しかもイスラエルはその占領地内に国際法違反のイスラエル人 [ユダヤ人] 入植地を数多建設)や 軍事封鎖している土地(ガザ地区)などを踏まえると, その領土拡大・拡張や(他民族の土地の)収奪・占領という観点においても, この「イスラエル」という「国」の在り方は 極めて, まさしく "極めて" 錯綜している。この「異常さ」はもう否定しようがない。
要するに, 1948年「建国」のこの「イスラエル」という「国」(「国」というより入植者植民地主義の「事業体」)は, まるで 仮足(偽足, 虚足)で運動する原生生物 アメーバ のように 不定形な存在なのである。
そこで, 16世紀以降オスマン帝国の支配下にあり, 1918年になると同帝国に第一次世界大戦において戦勝したイギリス(大英帝国!)が占領, 1920年から1948年にかけては「イギリス委任統治領パレスチナ」であった地域のうち, 東エルサレムを含むヨルダン川西岸地区およびガザ地区を除く, つまりは 1948年の「建国」と「第一次中東戦争」(更にその戦中・戦前のパレスチナ人に対する民族浄化キャンペーン)以降 1967年6月のイスラエルの奇襲攻撃・軍事侵攻(「第三次中東戦争」)による同国の更なる領土拡大・拡張の前までの期間に イスラエルが統治していた範囲を指して, ここでは便宜的に「48イスラエル」と呼ぶことにしている。
なお, イスラエル「建国」に伴って 域内の全パレスチナ人が難民化したわけではないので [当時 7-80万人のパレスチナ人が自らの家や土地を失い故郷を追われた, アラビア語で「大災厄」を意味する「ナクバ」については 今日の第3章にリンクを載せる note ハイファ(48イスラエル, 47イギリス委任統治領パレスチナ)に戻って 〜 1983年10月5日, その第1章及び第2章に詳述], 「48イスラエル」域内にも(同域内のその全域においては少数派ながら), アラブ系イスラエル市民(パレスチナ人)が居住している。また, 例えば, 筆者が 1983年10月5日にハイファから旅したナザレに関しては, 今も住民の多数派はアラブ系イスラエル市民(パレスチナ人)である。
*2 1967年6月のイスラエルによる上記「占領」に関しては(もちろん 東エルサレムに限らず), 同年11月22日に「イスラエルの守護国」アメリカ合州国すら含む全会一致で採択された国連安保理決議242 が イスラエルの同占領地からの撤退を要請しており, 当時もそれ以降も今も, 勿論すべて(アメリカを除く)国際社会から批判・非難され, 当然のことながらその正当性は認められていない。
付録 〜 1983-84年ユーラシア大陸(+アフリカ大陸北東端!)「ほぼ」一周の旅, note リンク集
1983年4月から翌1984年2月にかけ, 当時のソ連・欧州(「当時の」という意味では後の「ベルリンの壁」崩壊の前の分断ドイツ時代の西ドイツ, 西ドイツの西ベルリン=ただし米英仏の占領下, 東ドイツの首都だった東ベルリン, 更にはチトー死去後3年でまだ存在していた「ユーゴスラビア社会主義連邦共和国」などを含む欧州諸国)や, 中東(アジアの眼で見れば「西アジア」)・アジア諸国を, バックパック(リュックサックとほぼ同義)一つ背負って 旅した。
詳しくは,
パレスチナに向かう前に旅したのはヨルダン 〜 最初の "パレスチナ" 体験は, 在アンマンの パレスチナ難民キャンプ
「我々は彼らとともに住むことができる。ユダヤ人もパレスチナ人も クリスチャンもユダヤ教徒もムスリムも 1つの国でくらせる。民主的な国で。」(アンマン郊外のパレスチナ難民キャンプ出身のパレスチナ人が語った言葉) 〜 1983年9月21日
以下は, 下掲 note 第1章に掲載した写真 7枚のうちの 2枚, いずれも 1983年9月21日 撮影。


以下の第5章が 「我々は彼らとともに住むことができる。ユダヤ人もパレスチナ人も クリスチャンもユダヤ教徒もムスリムも 1つの国でくらせる。民主的な国で。」(アンマン郊外のパレスチナ難民キャンプ出身のパレスチナ人が語った言葉) 〜 1983年9月21日(今もこう語る寛容なパレスチナ人はどれだけいるだろうか, その後も続いたイスラエルによる横暴, パレスチナ人の土地の強奪, 家屋破壊, アパルトヘイト, ジェノサイド・民族浄化キャンペーンの後で)。
ヨルダン, アンマン で パレスチナ難民キャンプ を訪ねて 〜 1983年9月19-23日(写真, 旅日記 ほか)
ヨルダン・アカバ, 1983年9月23・24日 〜 西に見える「48イスラエル」領エイラートに向かって
アカバ からヨルダンの隣国イスラエル内にある隣り街エイラート(すなわち「48イスラエル」領のエイラート)に向かって歩いていたら, もちろん国境を越える意図も他意も何もなく単にもう少し近づいて眺めようと思っただけのことではあったのだが, しかしまぁ当然のように ヨルダン国軍の武装兵士がやって来て, そのまま彼らの上官がいる野営地みたいなところに連行された。貴重な体験ではあった。
写真, 旅日記 ほか。
ペトラ遺跡 - 1983年9月25, 26日
ヨルダン 旅 note 3本目。パレスチナ問題に直接の関係はないが, シリアのパルミラ(前章「前説」第2節「付録」にあるリンク集の中に「パルミラ」旅行記あり)と並び, 中東・西アジアで訪れるべき, 一度見たら決して忘れない, 確実に印象に残る(この後に更に限りなく美辞麗句を並べていいくらいの), 現代のヨルダンにある古代都市遺跡(ペトラ)を訪ねた, その時の話。
写真, 旅日記 ほか。
再びの アンマン, 1983年9月26・27日
ヨルダン 旅 note 4本目(兼「トルコ・シリア・ヨルダン振返り」note)。パレスチナ/イスラエル に向かう前に(向かう為に)再訪した, ヨルダンの首都 アンマン。
第1章が ヨルダン・アンマン, 1983年9月26・27日 〜 翌28日朝にはアンマンを発って, ヨルダン川を渡りイスラエルによる軍事占領下のパレスチナ, 東エルサレムを含むヨルダン川西岸地区へ(イスラエル軍事占領下のパレスチナ・ヨルダン川西岸地区行き, その手続きに関わる記録など)。
旅日記 ほか。
では, 「1983年秋のパレスチナ」へ。
パレスチナの旅, もしくは 「パレスチナ」及び「48イスラエル」の旅 〜 1983年秋
1983年9月28・29日 〜 ヨルダン川を渡り イスラエルによる国連安保理決議違反 軍事占領下の西岸地区に入る
以下は, 下掲 note 第2章に掲載した写真 7枚のうちの 3枚, いずれも 1983年9月29日 筆者撮影(イスラエルによる占領下の東エルサレム・エルサレム旧市街にて)。
1) 岩のドーム。イスラームが生まれてまだ間もない紀元688年着工, 692年完成。外部は大理石と瑠璃色のトルコ製タイルなどで装飾(1554年, オスマン帝国支配下で貼り直し)。ドーム部分は内部装飾も含め11世紀に再建。デザインはほぼ創建当時のものを踏襲。

2) ダマスカス門。エルサレム旧市街の複数ある城門のなかで最も美しいとされる門。城内のアラブ人地区のスーク(市場)の端にあたる。かつてこの門から城外へ出る街道は(現在のシリアの首都)ダマスカスに通じていた。それが、この門の名前の由来。

3) ダマスカス門の前を歩くパレスチナ人たち(右の奥に見えるのは欧米中心のツーリストたち)。

以下, パレスチナ 旅 note 1本目(写真, 旅日記 ほか)。イスラエル によって不当に占領された「ヨルダン川西岸地区」に入り, パレスチナ及び「48イスラエル」の旅を開始。
ベツレヘム 〜 1983年9月30日
1983年9月30日 筆者撮影, キリスト生誕の地とされるベツレヘムにあるキリスト教の歴史的な教会, 降誕教会(聖誕教会, Church of the Nativity)。

写真, 旅日記 ほか。
1983年10月1, 2日 〜 ジェリコ, マサダ・死海 〜 そして今も 白昼堂々とパレスチナ人に対する民族浄化の行為を行なうイスラエル
以下は, 下掲 note 第2章に掲載した写真 5枚のうちの 1枚(筆者撮影)。
1983年10月1日, ジェリコ(エリコ)にて。詳しくは第3章。当時, このパレスチナ難民キャンプは廃墟のような状態だった。住んでいたのはわずかなパレスチナ難民家族。

写真, 旅日記 ほか。
エルサレム旧市街 と 「ホロコースト記念館」(ヤド・ヴァシェム) 〜 エルサレムの東西; パレスチナ/イスラエル見聞録, 1983年10月3日
以下は, 下掲 note 第2章に掲載した写真 5枚のうちの 2枚(筆者撮影)。
東エルサレム, エルサレム旧市街にて。手前はユダヤ教の聖地「嘆きの壁」。背後に見えるのはイスラム教の聖地「岩のドーム」。中央から右に向かって歩いているのは, 1967年6月の奇襲・軍事侵攻以降, 東エルサレムを含むヨルダン川西岸地区を占領, 同年11月の国連安保理決議242 の撤退要求などに抗って(2025年の今に至るまで既に半世紀を越え, 58年以上もの長きにわたり, この写真の撮影時点では16年以上)違法・不当な軍事占領を続けるイスラエル軍の兵士たち。


写真, 旅日記 ほか。
ハイファ(「48イスラエル」, 旧「イギリス委任統治領パレスチナ」内)への旅 〜 1983年10月4日
以下は, 下掲 note に掲載した写真(筆者撮影)。

以下, 下掲 note にその写真を掲載した 1983年10月4日付の旅日記から(原文ママ)。
ハターハをかぶった人を見た。おじいさんだった。彼は どこか あてどもなく歩いている かんじだった。静かにすーっと歩いてる。バーのようなところに入って すぐ出てきて また歩き出す。
追いかけて行って カメラを見せて take picture? と言うと 彼はだまって立ち止まった。暗いので こちらに移ってとジェスチャーで言うと, また だまって動いて立ち止まった。2枚とった。とりおわると, 彼は また すーっと歩き出した。気になったので しばらくして追いかけ, おじさん, マッサラーミ, アッサラーム アレイクム と言ってみたが 彼は何かつぶやくのみだった。フィラスティーン? アイワ? ときくと, かすかに うなずいたようだった。You? ときかれたので ヤバーニ と言うと, ヤバーニ と彼もつぶやいた。追いこして マッサラーミ と言って 手を上げると, 彼は歩きながら, こちらに手を上げて あいさつした。
写真, 旅日記 ほか。
ナザレ(「48イスラエル」, 旧「47イギリス委任統治領パレスチナ」内)への旅 〜 1983年10月5日
1983年10月5日 筆者撮影, キリスト教において マリアへの「受胎告知」の場所とされているナザレの市街。ここでは今も, 住民の多数派はアラブ系イスラエル市民(パレスチナ人)。

写真, 旅日記 ほか。
ハイファ (「48イスラエル」, 旧「47イギリス委任統治領パレスチナ」内) に戻って 〜 1983年10月5日
1983年10月5日 筆者撮影, 日帰りの旅をした「48イスラエル」内の ナザレから 同じく「48イスラエル」内の ハイファにもどって, ハイファの街を歩きながら撮ったもの。ハイファの港, そして使われていなかったモスク(詳しくは note にて)。

パレスチナの「問題」(イスラエルによる大問題), それは 勿論, 2023年10月7日に始まったのではない。
いわゆる「パレスチナ問題」(「問題」という言葉の解釈次第で「イスラエル問題」と言った方がよいのではとも思うが)の歴史的背景を知る人間には, それはあまりに常識的なことではあるが。
「パレスチナ/イスラエル問題」の概観については, 以下の note の 第1章から 第2章 にかけて。
その他, 写真, 旅日記 など。
テルアヴィヴ(「48イスラエル」) 〜 ディアスポラ博物館を訪ね, 街では パレスチナ人達にも会い(1983年10月6日から翌7日)
1983年10月6日 に筆者が撮影した, テルアヴィヴ大学の構内にあるディアスポラ博物館(1978年開館, 筆者が訪れたこの時はまだ開館 5年目)。確かここは 博物館の入り口辺りだったはず。

写真, 旅日記 ほか。
テルアヴィヴ(「48イスラエル」), 1983年10月7-9日 〜 ガザから来ていたパレスチナ人一家, そして テルアヴィヴのユダヤ人, パレスチナ人
以下は, 下掲 note 第3章に掲載した写真 5枚のうちの 1枚(筆者撮影)。
少し登った芝生のところで アラブ人らしい家族を見る。話しかけてみると やはりパレスチナ人だった。たくさんいた。ガザから来たとのこと。
2005-6年以降, 既に20年近くイスラエルによって軍事封鎖され, 陸の孤島と化して時に「世界最大のゲットー」「世界最大の収容所」と形容されてきたガザ地区だが(物資の搬入すら制限され, 癌などの難病を患った人が軍事封鎖の強い影響下で疲弊した医療環境にあるガザ地区を出てヨルダン川西岸地区や「48イスラエル」内の街にある病院に行って治療を受けようとしても, イスラエル側の許可がなければガザ地区を出られない状態, しかも許可は滅多に下りない), 筆者が旅した1983年当時は(筆者は後日, パレスチナの旅の最後にガザ地区を訪れて同地区に滞在, その後, ガザ地区から陸路, 次の訪問国エジプトの首都カイロに向かった), ガザ地区も東エルサレムを含むヨルダン川西岸地区と同様に, 1967年6月のイスラエルによる奇襲・軍事侵攻以来の軍事占領下にあったものの, 現在とは違って, ガザ地区から出て「48イスラエル」内の都市であるテルアヴィヴにやって来るようなことも可能だった。今世紀に入ってからのイスラエルによる「ガザ地区」封鎖以降の時代から見れば 信じられないような時代, ではあった(もちろん当時も, 何処においてもパレスチナ側の主権はなく, 抑圧者・占領者「イスラエル」によって パレスチナ人の人権は大きく制限されていたのだが)。

写真, 旅日記 ほか。
エルサレムに戻って, 1983年10月9-10日 〜 見たり聞いたり考えたり思い出したりキブツに行ったり.. ヘドバとダビデの「ナオミの夢」
以下は 下掲 note に掲載した写真(筆者撮影)。1983年10月10日, エルサレム旧市街の宿から一番近いキブツに行って, キブツの住人・労働者たちを「質問攻め」にした。まぁもちろん「攻め」たりはしてなくて, 基本的なことに関していろいろ訊いてみたわけで, 要するにアマチュアの取材みたいなものだ(詳しくは note にて)。

写真, 旅日記 ほか。
ヘブロン (被占領地パレスチナを「代表」するような街の一つ) 〜 1983年10月11日
1967年6月のイスラエルによる奇襲・軍事侵攻以来, 同年11月の国連安保理決議242 をはじめとする複数の国連安保理決議に違反しながら, (2025年現在の)今もなお イスラエルが 軍事占領を続けるヨルダン川西岸地区の街の一つ, ヘブロン。
以下は 下掲 note に掲載した写真のうちの 1枚(1983年10月11日, 筆者撮影)。
イスラエル兵に占拠された建物。屋上には数人のイスラエル人「占領軍」兵士がいて, イスラエルの「国旗」が 風に揺れていた。

写真, 旅日記 ほか。
被占領地パレスチナの大学を訪ねた(ビルゼイト, ナブルス) 〜 1983年10月12, 13日
以下は, 下掲 note に掲載した写真のうちの 2枚(筆者撮影)。
1) 1983年10月12日, イスラエルによる軍事占領下, ヨルダン川西岸地区にあるパレスチナの名門大学の一つ, ビルゼイト大学(Birzeit University)の学生評議会の部屋にて(いろいろな質問に答えてくれた学生たち)。 彼らの英語は, 筆者の英語の1万倍くらい(!)上等で, こっちが申し訳なく感じるくらいだった。

壁に貼られているのは, パレスチナの旗をデザインしたものの他, 当時のPLO (Palestine Liberation Organization) の議長ヤーセル・アラファート(ياسر عرفات, Yasser Arafat, 1929年8月24日生まれ - 2004年11月11日他界)の写真や, 旗を挟んで左側には PFLP (Popular Front for the Liberation of Palestine) の創設者で当時議長だったジョージ・ハバシュ(جورج حبش, George Habash, 1926年8月2日生まれ - 2008年1月26日他界)の写真, 右側の壁には元PFLPのメンバーで1960年代末から70年代初期にかけてのハイジャック闘争の女性闘士だったライラ・カリド(ليلى خالد, Leila Khaled, 1944年4月9日生まれ)の写真も。因みにライラ・カリドは 2025年の今現在も健在で, 若かった頃の武装闘争から離れ, パレスチナ自治政府(残念ながら自治は形式的なものに過ぎないが)の最高議決機関 PNC (Palestinian National Council) のメンバーとなっている。
左端の学生の背後に貼られているのは, 『ハイファに戻って』『太陽の男たち』などの著作で 日本でもその名を知られるパレスチナ人作家, ガッサーン・カナファーニー(*1, غسان كنفاني, Ghassan Kanafani, 1936年4月9日生まれ - 1972年7月8日他界, イスラエルの諜報機関モサドにより暗殺される)。
2) ナブルス(ナーブルス)も, ビルゼイトと同じく, 1967年6月以来のイスラエルによる占領地(同年11月の国連安保理決議242 をはじめとする複数の国連安保理決議に違反)であるヨルダン川西岸地区にある, パレスチナ人の街。1983年10月13日, 筆者撮影。
この街でも パレスチナの名門大学(An-Najah National University)を訪ね, 学生たちと多くのことを話した。

写真, 旅日記 ほか。
*1 ガッサーン・カナファーニー(غسان كنفاني, Ghassan Kanafani, 1936年4月9日生まれ - 1972年7月8日他界, イスラエルの諜報機関モサドにより暗殺される)が 残したメッセージ。
In this short clip from 1970, Palestinian writer Ghassan Kanafani schools a western journalist on why 'peace talks' between the neck and the sword are never really about peace. Israel murdered him two years later.
— Jonathan Cook (@Jonathan_K_Cook) December 18, 2024
Still as relevant today as it was 54 years ago. pic.twitter.com/vaT2H7MvHE
彼のメッセージは, 必ず, これからも受け継がれる。
次節, 再び, 1983年の「パレスチナ」の旅へ。
エルサレム旧市街にて 〜 1983年10月14日
1967年6月のイスラエルによる奇襲・軍事侵攻以来, 同年11月の国連安保理決議242 をはじめとする複数の国連安保理決議に違反しながら, (2025年現在の)今もなお イスラエルが 軍事占領を続ける「東エルサレム」, エルサレム旧市街。
以下は, 下掲 note 第3章に掲載した写真 8枚のうちの 6枚(1983年10月14日, 筆者撮影)。
1) エルサレム旧市街を歩くパレスチナ人の老夫婦。右側背後に写っているのはクリスチャンだったかも(エルサレムに住むクリスチャンにはパレスチナ人もいるし, アルメニア人やギリシャ人などもいる)。

2) エルサレム旧市街を歩くパレスチナ人の婦人たち。

3) エルサレム旧市街を歩くパレスチナ人の婦人たちと .. 右端はパレスチナ人の男性だろうか, それともイスラエルのユダヤ人の男性だろうか(第三者の眼からは わりと判別がつかないこともある)。

4) 野菜や果物などを売る, パレスチナ人の婦人たち(エルサレム旧市街)。

5) 同じくエルサレム旧市街, パレスチナ人のおばあさんや子供たち(孫たちだろうか)。夕刻過ぎ, 辺りが暗くなってきた頃。

6) エルサレム旧市街, 上の写真と同じ場所。パレスチナ人の家族(孫の遊び友達もいるかな)の前を歩く, イスラエルのユダヤ人たち。

写真, 旅日記 ほか。
「我々がここで勉強し, 働き, とにかくここに住み続ける, そのことが ここでは 闘いにもなる」 〜 再び ナブルスの大学を訪れ, 学生たちと話し, 彼らから話を聞いた, 1983年10月15日
タイトル写真は, 1983年10月13日のナブルスの街。滞在していたエルサレム(旧市街のある東エルサレム, ヨルダン川西岸地区の他の地域と同様に1967年6月以降イスラエルが複数の国連安保理決議に違反して2021年の今も占領中の地)から日帰りの旅で西岸地区にあるナブルス(ナーブルス)を初めて訪れ, そこでパレスチナの大学 An-Najah National University に行って学生たちと話した日。2日後の 1983年10月15日, 再びエルサレムからナブルスに出かけて, その大学を再訪, 2日前とはまた別の学生たちと話した。
第3章は 「我々がここで勉強し, 働き, とにかくここに住み続ける, そのことが ここでは 闘いにもなる」 〜 再び ナブルスの大学を訪れ, 学生たちと話し, 彼らから話を聞いた 1983年10月15日(旅日記10ページ分 掲載)
パレスチナ の旅, 最後は「ガザ地区」。
被占領地パレスチナ, 「ガザ地区」 〜 1983年10月16-18日
2025年の今, 1948年「建国」の人工「国家」(国家というより「ならず者国家」, いや「ならず者による入植者植民地主義の事業体」)イスラエルが, その土地も, そこに住む・住んでいたパレスチナの人々の生活・命をも, そこに存在する全てを, 要するに何もかもを蹂躙し続けている「ガザ地区」。
パレスチナのガザ地区は現在の軍事封鎖下の環境と違い, (当時も今も変わらずイスラエルの軍事占領下にある)パレスチナのヨルダン川西岸地区と同様に, 当時はやはり軍事占領下の地域だった(もちろん同じくイスラエルによる!イスラエルのせいで説明が毎度毎度ごちゃごちゃする地域だね)。
1983年4月26日に日本を発ち, ソ連・ヨーロッパ諸国を旅し, 1ヶ月いたギリシャを発って中東(西アジア)諸国の旅を始め, トルコ・シリア・ヨルダンそれぞれの国内を旅した後, ヨルダンの首都アンマンを出て, 陸路, 「歴史的パレスチナ」地域(については本 note 第2章)のヨルダン川西岸地区に入ったのが 同年9月28日。その後, 10月18日に2泊3日滞在したガザを出て, 陸路, 次の目的地であるエジプトの首都カイロに向かった。結局, パレスチナ/イスラエルの旅は 3週間の旅だった。
以下は, 下掲 note 第3章に掲載した写真 6枚のうちの 3枚。
1) 1983年10月16日 の ガザの海岸。この海は, いつになったら平和な海になるだろう? パレスチナは, 自由や人権が存在する場所に, 国に, いつになったらなるだろう?

2) 1983年10月16日, ガザ の街。オレンジ色のミニバスは, スクール・バス。

3) 1983年10月17日, 親しくなったパレスチナ人の家で(ガザ地区はもちろんパレスチナのなかの一地域ではあるが, そこに住んでいるパレスチナ人には, エルサレムやその他のヨルダン川西岸地区, あるいは「48イスラエル」領にある他の街や村などからの難民が多数含まれる)。

右から2番目はパレスチナ人ではない(筆者!)。まぁしかし, ここがいつの日か 一つの世俗的な民主国家(次章, 今日の最終章)の土地になれば, こんな顔の人間が移り住んで「パレスチナ人」になっていても 不思議でなくなるのかもしれない。
写真, 旅日記 ほか。
次章(今日の最終章)は「旅行記」ではなく,
それでも 〜 パレスチナ(パレスチナ/イスラエル)が 「民主主義的な一国家」 になるという未来の 「現実」 を想像する
それでも, 想像する。
「我々は彼らとともに住むことができる。ユダヤ人もパレスチナ人も クリスチャンもユダヤ教徒もムスリムも 1つの国でくらせる。民主的な国で。」(アンマン郊外のパレスチナ難民キャンプ出身のパレスチナ人が語った言葉) 〜 1983年9月21日(今もこう語る寛容なパレスチナ人はどれだけいるだろうか, その後も続いたイスラエルによる横暴, パレスチナ人の土地の強奪, 家屋破壊, アパルトヘイト, ジェノサイド・民族浄化キャンペーンの後で)。
本章標題の "それでも" というのは勿論, イスラエルによるパレスチナ人に対する弾圧(土地の占領と違法入植, 更なる土地泥棒・土地強奪, 「文化」泥棒, 家屋破壊, オリーヴの木の破壊, 罪状なしの連行・誘拐, 裁判なしの長期拘留, アパルトヘイト, 爆撃ほかの残忍な暴力, ジェノサイド, 民族浄化)が 何十年も続き(シオニズムによる大量の移民の始まりや「バルフォア宣言」などのイギリスの三枚舌外交など踏まえればこの問題は既に100年, 一世紀を越えている), 今やイスラエルの「ならずもの国家」ぶりはその極限に近い状況にあるからだ。
しかし「極限に近い」, これはその「終わり」が近いということでもあるのかもしれない。
以下は, 2020年12月19日付 note 投稿 パレスチナ/イスラエルが 「民主主義的な一国家」 になるという未来の 「現実」 を想像する の目次, および リンク。
理想主義ではなく現実主義の「イマジン」
ユダヤ人差別とシオニズムと、1948年のイスラエル「建国」 〜 そして、パレスチナ/イスラエル問題
一国家解決法への道
一国家解決法 〜 民主的な一つの国を
ここからは付録 1) : イスラエルの占領政策に抗議し、兵役を拒否するイスラエル人
付録 2) : イスラエル批判に対し「反ユダヤ主義」という名のレッテルを貼ることの度し難い愚かさ
付録 3) : マガジン
付録 4) : イマジン
以下, 18頁目 882人目の署名者が 本 note 筆者。
