父の近況報告と戸棚のシャンパン
父からの電話は、いつも「近況を報告します」という謎の丁寧さで始まる。
しかも驚くべきことに、その近況には私もしっかり紛れ込んでいるから、毎回「それは誰の話でしょうか?」と、心の中で突っ込むことになる。
「こちらの近況を報告します。新潟の叔父さんが夏に膝の手術をするらしいので、式をやるなら、その前がいいと思います」
なるほど。どうやら私は近々、式を挙げる予定らしい。
父の近況報告は、いつも実に幅広い。親戚の体調、ご近所さんのあれこれ、それから長年スラックスを買っていた駅前の洋服屋が閉店すること。ズボンじゃなくて、スラックス。そこだけは、昔から絶対に譲らない。
「はいはい」とスマホをスピーカーにして、流し台の横に置いた。その途端、ただでさえ大きい父の声が、ワンワンと耳にきた。テレビの天気予報が、案の定もう聞こえない。
「聞いてるか?忙しそうだな。いつも忙しそうだよな」
そりゃ叔父さんの膝と、聞き逃した天気予報と、私の(架空の)結婚式が同じタイミングでやってきたんだからね。いや、結婚式は、だから無いってば。
「そもそも籍も入れていないのに、式の話はおかしいでしょ」と真面目に説明したこともあるのだが、そのとき父は「なにがだ?」と、心底不思議そうな顔をしていた。
ややこしくなるから、それきり言っていない。きっと父のことだから、わざと忘れたふりをしてスルーしている可能性も高い。
私は今、「夫」ではなく「パートナー」と暮らしている。お互い、それぞれ盛大な拍手で見送られたものの、結局バツイチになった。
だからか、「二度目はもういいかな」というのが正直なところ。一度やってみて、十分わかった気もする。あの頃は、ステンドグラスの光の中で、本気で永遠を信じていた。眩しいくらいに。でも永遠なんて、そう簡単に続くものじゃないと、身をもって知った。
だから今は、誰かに永遠を誓うよりも、日々の生活が普通に続いていればそれでいい。
なんて言いつつ、一回目の式はずいぶん景気良くやった。今は亡き母も大喜びで、誰よりも張り切っていたのはやっぱり父だった。調子に乗った私たちはスモークまで焚いたりして、すっかり有名人の気分だった。
あれだけ盛大に送り出してもらったのに、結局戻ってきたんだから。Uターンにも程がある。もっとも、今どき珍しい話でもないとは思う。
あれから十数年。親戚を集める理由として、私の人生を再利用されては困る。困るのだけれど、父の中では、あの日の宴はまだ終わっていないような気がしてならない。
叔父さんの膝はどこへやら、数日後、父からまた電話がかかってきた。
「京都の〇〇さん、最近ちょっと体調が悪いそうです」
「そうなんだ」
「入院するほどじゃないらしいです」
しばらく沈黙が続いて、嫌な予感がしたその時。
「だから、やるなら早めの方がいいですね」
どこから始まっても、着地点は同じ。もちろん、それで話が終わるわけもなく。
「最近、ご近所さんとゲートボールを始めました」
「へえ、そうなんだ」
「あと、シニアサークルにも入りました」
「楽しそうじゃない」
「土曜日と日曜日なら空いています」
「なにが?」
「みんなの予定です」
元気なうちに集まりたいとは言うけれど、去年だって実家の近所の焼肉屋で、親戚一同乾杯していたはずだ。叔母さんから送られてきた写真の中のみんなは、お肉を前にしてなんとも楽しそうに笑っている。
そんなある日、福岡に住む叔母から、数年ぶりに電話がかかってきた。
「おばちゃんも、もう歳だしねえ。死ぬ前にもう一度みんなで集まりたいねえ」
しみじみとした口調に、私はピンときてしまった。
「〇〇ちゃんが結婚式を挙げてくれるなら、そんな嬉しいことはないよ!」
もちろん、叔母に悪気はない。ただ、父が水面下で進める「みんなで集まりたい計画」の巻き込み力だけは、昔からちっとも変わっていない。
「やるとしたら東京ね。親戚はどれくらいになるの?泊まるとしたら、布団は足りる?」
待ってよ、おばちゃん!
気づけば叔母は布団の話を始めていて、私はといえば今夜は何にしようかと、冷蔵庫を開けたり閉めたりしていた。現実逃避も、ここまでくると生活感しかない。
その頃、彼はといえば、風呂上がりでパンツ一丁。汗だくのままソファにドサリと倒れ込み、テーブルの上の食べかけのポテトチップス共々、しばらく動く気配がない。
「ビール取って、ビール!」
この人だけは、いつも通りだ。父が私たちの式について勝手に盛り上がり、叔母が布団の心配まで始めていることなど、彼は知るはずもない。
一回バツをつけて戻ってきた私は、こうしてまた誰かと暮らしている。我ながら懲りないと言うか、先の展開なんて本当に読めないものだ。それでも、式となると話は別だ。
翌朝、私は父に電話をかけた。「二度目の式は、やりません」
「そうか……」スマホから漏れたその一言に、私は返事をしそびれた。ところが数秒後には、「本当にやらないのか!」と猛烈に抗議してきた。全然、諦めていない。
その後、例の「死ぬ前にもう一度みんなで会いたい」と言っていた叔母から、「七十五歳でズンバを始めました」とLINEが届いた。聞けば、背中が開いた衣装で踊るのが今の夢らしい。布団の心配より、衣装の心配をしてほしい。
あれからしばらく、父からの「近況を報告します」は来なくなった。やれやれ、と思った矢先に、また電話が鳴る。
「そろそろ俺の誕生日だな!」
式の時のような、回りくどい前置きをすべてすっ飛ばした、見事な直球であった。
昨年の誕生日には、彼と一緒に父の大好きなシャンパンを持って実家へ向かった。
「おお、シャンパンじゃないか!」と、こちらが引くほど喜んだのも束の間、「これは友達が来た時に飲むから……」とそれを戸棚の奥へしまい込み、彼には当然の顔で、普通の缶ビールを「はいどうぞ」と差し出してきた。
二度目にして、彼は早くも「気を使わなくていい身内枠」へスピード昇格を果たしたらしい。あはは。もう娘婿扱いだ。
そんな実績があるものだから、今年も当然、二人で来るものと思っていたんだろう。
「来るならお酒でいいぞ」となぜか受け取る前提で、しかも「辛口が好みなんだよ」と好みのタイプまで指定してきた。たしかに、用意する側としては銘柄をあれこれ悩むより「辛口」と指定してもらう方がよっぽど楽ではある。
……いや、感心している場合ではない。今年はどうしても予定が合わずに行けそうにないのだ。そう伝えると、電話の向こうから「そうか……」と、今にも消えてしまいそうな声が返ってきた。
こちらには一ミリの非もないはずなのに、なぜこんなにモヤモヤさせるんだ。会いたくなくて行かないわけじゃないのに。なんでいつもこうなんだ。
私はスマホを強く握りしめたまま、冷蔵庫をバタバタさせていた。中の卵の賞味期限が近い。冷蔵庫を開けたまま、こちらも向こうも黙ったままだ。
冷気だけが流れ続ける沈黙は、20秒くらいで終わった。
「じゃあ、催促みたいで悪いんだが、今年は美味しいハムがいいな!」
スマホから聞こえたその声に、なんだか拍子抜けして、思わず吹き出してしまった。父がハムを欲しがっている限り、この関係はきっと大丈夫だ。
すっかりいつもの調子に戻ったところで、気になっていたことをついでに聞いてみた。
「そういえば昨年のシャンパンは飲んだの?」
「まだ戸棚の中にあるぞ。誰か来たら、開けような」
そう言って、満足げに電話を切った。そっか、あのシャンパンまだそのままなんだ。
スマホを置いて、なんとなく着信の履歴を開いてみたら、父との通話だけがずらっと並んでいた。
実は、最近ちっとも実家に行けていない。母がいなくなってから、父は着々と一人暮らしの主と化していて、あそこに行くと地味にエネルギーを消耗する。
玄関を開ければ、趣味で集めた水晶が無造作に出迎えてくれる。「泥棒が来たらこれで殴れば一発だ」と父は笑うが、家族である私がつまずいてケガをした。冷蔵庫を開ければ賞味期限切れの調味料が並び、二年ほど放置されたマーガリンの劣化具合には、もはや感心すらしてしまう。
だが、良かれと思って片付けたら、まさかの大クレームをいただいた。あのシャンパンだって、リビングにでも堂々と飾ればいいのに、なぜか台所の薄暗い戸棚の奥に押し込まれたままだし。そういう実家の現実と向き合うのが、正直ちょっと面倒なのだ。
大した用もないのに、ちょいちょいかかってくるあの電話。「たまには顔でも」って、言いたいことはそれくらいのことだと、本当はとっくに分かっている。それでも聞こえないふりをしてしまう。行けば気になって片付けたくなるし、片付ければ喧嘩になる。かといって放っておくのも気になる。娘というものは、こういうところで振り回される運命なのかもしれない。
けれど、いつまでも意地を張っている場合でもないか。そろそろ、あの父なりのルールで動いている実家へ足を踏み入れようと思う。次こそ水晶だけは踏まないように。
結婚式は勘弁だけど、次に、例の焼肉屋で集まる時は、彼と一緒にまぜてもらおう。ここで一度挨拶くらいしておかないと、叔母さんたちの詮索も止まらないし、彼は親族の間で「まぼろしの婿」という、ツチノコみたいな存在のままになってしまう。
ということは、お父さん。戸棚にしまい込んだままのあのシャンパンも、ようやく出番だね。
ツチノコ……いや、彼が、父や叔母さんたちに捕まっている間に、私はその騒ぎをつまみに、お先に一杯やらせてもらうことにするか。
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