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『情熱の真っ赤な血判』/社内革命を企てる有志たちに「この中に経営陣からのスパイがいる」という疑惑が。有志たちは身の潔白の証として、性的興奮からの鼻血を利用した血判を捺すことに……ショートショートその172)

午後九時過ぎ。

蛍光灯の半分が切れた倉庫Bに、静かに六人が集まった。

作業着の袖をまくる者、スーツのネクタイをゆるめる者、息を潜めるようにして壁際に立つ者。

だが誰一人、冗談を言う者はいなかった。

卓代わりの段ボールの上に、新海が一枚の和紙を広げた。

赤い指印が六つ。

乾いた血が、黄ばんだ紙にこびりついている。

「この血判が揃ったのは、二週間前だ。だが——」

新海啓介。

総務部課長補佐。

温厚そうな表情の奥に、剃刀のような視線を隠し持つ男だった。

「——この中に、誓いを偽った奴がいる可能性がある」

言い終えると、倉庫の空気が一段冷えた。

誰もが視線を交わした。

疑っているわけでも、睨んでいるわけでもない。

ただ、自分の血が疑われているという現実が、その場にいた全員の胸を締めつけた。

「……またですか」

小川が呟いた。

二年目の情報システム課。

線は細いが、理屈に強い。

「また、かどうかは関係ない。俺たちの動きは、これまでに三度潰された」

新海は、平坦に言った。

抑揚はないが、静かな怒りが言葉の隅々ににじんでいる。

「一度目は、申請書が“偶然”机から落ちて消えた。二度目は冷却機が“故障”した。三度目には、備品室のキーを“誰か”がすり替えた。全部、俺たちが動き出した翌日の話だ」

「……情報が洩れてる」

吉永が口を開く。

経理課の主任。

冷静沈着、感情を表に出さない男だが、今夜は手元のペンを不自然なほど強く握っていた。

「社内の誰かが、上に流している」

「誰かって、ここからか?」

北岡が言った。

若手の営業マン。

正義感が強い半面、疑り深さもある。

「俺たち以外に、この計画を知ってる人間はいないだろ」

「それを今、確認するんだ」

新海が、もう一枚の和紙を懐から取り出す。

何も押されていない、新しい血判状だった。

「もう一度、“本物の血”で指印を押してもらう」

小川が息を呑んだ。

「また、あれをやるんですか……?」

「前と同じだ。鼻血でなければ意味がない。人間が最も理性を失う瞬間にしか、忠誠は量れない」

狂気すれすれの論理だった。

だが、この倉庫にいる六人にとっては、もはや常識のように受け入れられていた。

「……やるしかないな」

最初に立ち上がったのは、北岡だった。

スマホを取り出し、画面を伏せてイヤホンを装着する。

音は漏れてこない。

目を閉じ、しばし沈黙。

そして、小さく鼻を押さえると、赤い滴を指先にとった。

ぺたり。

二人目は島田。

人事部所属。

スーツの内ポケットから、ミニサイズの画集を取り出す。

ページを一枚めくり、無言のまま見入る。

その頬が赤く染まり、鼻にハンカチをあてた。

ぺたり。

三人目は吉永。

手帳の隙間に忍ばせていた一枚の写真を見せずに取り出し、視線を落とす。

彼だけは何も言わず、黙って押した。

ぺたり。

小川は、香水瓶のようなものを取り出した。

掌に一滴。

深く吸い込む。

「……すみません。ちょっとクセ強いんで……」

言いながら、鼻を押さえた。

ぺたり。

リーダー・新海は、妄想のみで右鼻腔から赤き情熱を滴らせた。

五つの印が並んだ。

残るは、副リーダー・梶井一人だった。

物静かな男だが、実務面の采配は彼が握ってきた。

物流、設備、備品、情報、すべての裏ルートに精通していた。

その彼が、動かない。

「……梶井?」

新海の声に、全員が顔を上げた。

「……すまない。出ない」

梶井の額には汗がにじんでいた。

「見ろよ。やっぱこいつ——」

「違う!」

梶井が立ち上がる。

普段の冷静さが吹き飛んでいた。

「……違うんだ。ただ、俺には普通の方法じゃ、出ない」

数秒の沈黙。

誰も、次の言葉を選べなかった。

「じゃあ、どうする」

新海が言った。

梶井は無言でバッグを開けた。

中から取り出したのは、布で包まれたケース。

ふたを開けると、そこには——

「焼きナス……?」

小川が言った。

それは、食品サンプルだった。

異様なまでにリアルな、光沢と焦げ目。

滴る油膜までも再現された、焼きナスだった。

「これで、出る」

「お前……」

「馬鹿にしたいならすればいい。だが俺は、三度潰されたこの計画を、本気で成功させたい。……誰にも、笑わせない」

梶井は、焼きナスをじっと見つめた。

やがて、鼻先に赤が滲む。

ぽたり。

ぺたり。

六つの血が揃った。

新海は静かにそれをたたみ、懐にしまった。

「……月曜。午前八時三十分」

誰かが息を呑む。

「各自、持ち場につけ」

「俺は、電源の系統を見ておく」

「俺は、佐川との接続確認。……冷気が落ちたら終わりだ」

「備品室、今度こそ通す」

「やっと、ここまで来たな」

「——三年越しだ」

「失ったもの、取り戻せるといいがな」

誰も冗談を言わなかった。

冗談で済まされる戦いではなかった。

そして、一人、また一人と倉庫を後にした。

血の匂いだけが、重く残っていた。



――その日から、社員食堂にプリンが復活した。

彼らの革命は成就した。


【糸冬】



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