『ざんねんしょう』/「残念賞」という言葉の起源について講義した教授の元に、「残念賞の言い出しっぺ」を名乗る若者が現れる。教授はその若者に見覚えがあり……(ショートショートその152)
「さて、きょうの講義は“日本語における賞の命名”についてです。君たちも、何かしら表彰される場面を経験したことがあるでしょう。“最優秀賞”“敢闘賞”“努力賞”——では、“残念賞”は?」
教壇の上で、老教授は丸眼鏡をくいと上げながら、学生たちの様子をゆっくりと見渡した。
「たとえば、学校のビンゴ大会で商品が出尽くしたあとに、“残念賞として鉛筆一本です”と司会が言う。あるいは、抽選に外れた人にティッシュを渡す時の、お定まりの決まり文句。“今回は残念賞ということで……”と」
学生たちが笑い、うなずく。
「では、考えてみましょう。“残念賞”とは、いったい誰が名付けたのでしょうか?」
教授は黒板にチョークで大きく書いた。
「残念賞」=“booby prize”?
「これは、英語の“booby prize”を訳したものではないかという説があります。“booby”とは、“まぬけ”“とんま”という意味。つまり、ビリの人への“皮肉交じりの賞”ですね。そこから、“外れて残念でしたね”という、いわば慰めと侮蔑の中間に位置する言葉として、“残念賞”という訳語が自然に根づいたのではないかと」
チョークが小気味よく鳴った。
教授は続けた。
「日本語の“残念”という語は、もともと“無念”や“口惜しさ”と強く結びついていました。ところが、昭和に入ると、漫才や落語の中で“残念でした〜”という言い回しが広まり、やがて軽妙さを帯びるようになった。つまり“残念”は、悲しみからユーモアへの転換点にあったわけです。そこに“賞”がついて、“残念賞”と……」
教授は板書を止め、手を後ろで組みながら、静かに言った。
「誰が言い始めたかは、記録にありません。だが、おそらく名もなきイベント司会者が、気の利いたジョークとして言った。あるいは、どこかの会社のコンペで、場を和ませるために、そう呼んだ。そして、それが定着した。つまり、言語の自然発生的な広まりということです」
学生のひとりが手を挙げる。
「先生、それって、いわば“言葉の匿名性”ってやつですか?」
教授はにやりと笑った。
「そう、まさにそのとおり。言葉には、名乗り出る作者がいないまま、広まっていくものがある。“残念賞”は、その典型例だと言えるでしょう」
チャイムが鳴った。
教授はノートを閉じ、ゆっくりと身支度をはじめた。
「では、きょうはこのへんで。……次回は“努力賞と功労賞の違い”について、少し語りましょう」
教室のざわめきのなか、老教授の背は軽く丸まっていたが、足取りはどこか軽やかだった。
まさか、自分の語った“残念賞”が、夜の帳とともに、姿を変えて迫ってくるとも知らずに——。
⸻
講義を終えた教授は、鞄を肩にかけ、大学の構内を出た。
夜風がじっとりと肌にまとわりつく。
木々のざわめきが、まるで誰かの囁きのように耳に残る。
本来なら駅へ出てバスに乗るところだが、その夜に限って、教授の足はなぜか住宅街のほうへ向いていた。
昔よく通った近道。
今ではもう抜け道として使う者も少なく、舗道の一部には苔すら生えていた。
その時だった。
「……先生」
唐突に、背後から声がした。
振り返ると、路地の端に一人の青年が立っていた。
二十代に見えるその男は、茶色のスラックスに、薄いグレーのワイシャツを着ていた。
裾が少し出ており、ボタンもひとつ掛け違えていた。
現代的とも、古びているともつかぬ、どこか「時代の抜け落ちたような」装いだった。
「どちら様ですか?」
教授の問いかけに、青年はゆっくりと近づいてきた。
その足取りは静かすぎた。
アスファルトの上を歩いているはずなのに、靴音がまったく聞こえなかった。
「……さっきの講義、聞いてましたよ」
「え?」
「“残念賞は、自然発生した言葉だろう”って。そう言ってましたよね」
教授は、一瞬たじろいだ。
講義の内容を、大学の関係者以外が口にすること自体、異様だった。
「君は……うちの学生かね?」
「いいえ」
その返答には、ほんの少しだけ笑みが混ざっていたようだった。
だが、それは口元だけの笑いで、目はどこまでも濁っていた。
「違うんです。あれを最初に言ったのは……俺ですから」
「……何の話だ?」
「残念賞。最初に言ったのは、俺です。景品が足りなかったときに、言ったんですよ。もう賞品ないけど、じゃあ“残念賞”ってことにしようって。ウケたんですよ、それが。……そしたら、いろんなやつが使いはじめて、いつの間にか、広まってた」
口調は穏やかだったが、言葉の中に妙な執着がにじんでいた。
「勝手に、知らないやつが意味をつけて、勝手に“由来”を語って。……どう思います?」
教授は、じっと青年の顔を見つめた。
どこかで会ったことがあるような……いや、ない。
だが、ひどく気になる目だった。
深く、静かで、こちらの内側を覗き込むような——。
「申し訳ないが、急いでいてね。話はまた、どこかで……」
「どこかで? また?」
青年はその言葉を繰り返した。
そして、表情を変えずに言った。
「“また”なんて、ありますかね?」
その瞬間、教授の背中に冷たい汗がにじんだ。
「……失礼」
言い終えるのを待たず、教授は小走りにその場を離れた。
足音がひとつ、ふたつ、重く響くたびに、背後に気配を感じたが、振り返ることはしなかった。
肩越しに風が吹き抜けるたび、誰かの呼吸が耳にかかるような錯覚があった。
自宅にたどり着いたとき、教授の額には脂汗が浮かんでいた。
玄関の扉を閉め、鍵を二重にかけ、背をもたれかけるように座り込む。
外は静かだった。
だが、路地の奥には、まだ誰かが立っている気がしてならなかった。
⸻
夜、書斎の明かりだけが灯っていた。
古びた電球の下、教授は分厚いアルバムを机に広げていた。
指先が紙をめくるたびに、ぺらり、ぺらりと音がする。
今日、あの路地で会った青年の顔が、どうしても頭から離れなかった。
見知らぬはずなのに、目も、輪郭も、どこか懐かしい。
それは単なる似ている他人だったのか、それとも——。
教授はふと、学生時代のページで手を止めた。
そこには、落語研究会の集合写真が収められていた。
十数人の中、中央でピースサインをしている男の顔を見て、息を呑む。
「……これだ」
笑っている。
だが、どこか不敵な、悪戯っぽい笑い方だ。
名札の下に、油性ペンで書かれた文字。
“本間修司”
あの青年の顔と、瓜二つだった。
記憶の底から、彼の声が浮かび上がる。
宴会の席で披露された即席の余興。
外れくじの景品を出し忘れた誰かが困っていたとき、彼が笑いながら言った。
——「じゃあ、それ“残念賞”ってことで。なんも出ないけどね」
その時、皆が笑った。
教授も、笑った。
「残念賞」という言葉が、じわじわと仲間内で使われはじめたのも、その頃からだった。
教授は震える手で、電話を取った。
番号は記憶していた。
学生時代から交流のある旧友のひとり。
研究会仲間でもある、物静かな男だ。
コール音が三度鳴ったあと、受話器の向こうで声がした。
「……もしもし?」
「やあ、私だ。こんな夜分にすまん。ひとつ、訊きたいことがあってな……本間修司のことだ」
電話口の向こうで、しばし沈黙。
「……修司?」
「そう。彼は、いま……どうしてる?」
もう一度、沈黙。
今度は、やや長かった。
「……ああ。知らなかったのか。修司は……もう、死んでるよ」
教授は思わず、息を呑んだ。
「十何年前だったか、事故だった。夜道で車にはねられてな。葬儀にも出たろ、君……いや、たしか、行けなかったんだったな」
返事ができなかった。
喉が塞がったように、声が出なかった。
「なんだ、今さらどうして?」
「……いや。なんでもない。ただ、ふと思い出してね。ありがとう。……悪かった、夜分に」
電話を切った後も、教授はしばらく受話器を握ったままだった。
書斎の静寂が、やけに重たく感じられた。
彼は静かに立ち上がり、書棚の一番上から古い封筒を取り出す。
中には修司からの手紙が数通。
どれも、軽妙な筆致だった。
「お前は堅物だから“残念賞”のセンスがない」——そんな一節があったのを、なぜか思い出した。
——勝手に、自分の中で“起源”を語ってしまった。
——誰にも確認せずに、論に仕立て上げた。
——彼の声を、彼の言葉を、無視したまま。
教授は立ち上がると、タンスから礼服の一部を取り出し、埃を払った。
明日、彼の実家へ行こう。
それが筋というものだろう。
少なくとも、“敬意”だけでも返さねばならない。
夜の帳は深まっていた。
それでも教授は、そのまま机に向かい直し、白紙のレポート用紙に、静かにこう書き記した。
「残念賞という言葉について——私的回想」
⸻
朝。
教授は一度も眠れぬまま身支度を整え、黒いスーツに袖を通した。
礼服というより、ただの地味な喪服姿に見える。
電車を乗り継ぎ、小一時間ほどの郊外。
住宅と畑がまだ混在する町の外れに、本間家の表札はあった。
すりガラス越しに庭の木々がゆれ、門扉にはうっすらと朝露が残っていた。
インターホンを押す指が、少し震えていた。
だが、呼び鈴の音は空しく鳴り、返答はなかった。
(留守か……)
門は施錠されておらず、そっと開けると、庭の一角に小さな家族墓が見えた。
教授は誰にも声をかけられぬまま、石畳の先へと足を運んだ。
墓石はこぢんまりとしていた。
苔がうっすらとつき、花は枯れかけていたが、線香立てには昨日の灰が残っていた。
誰かが、つい先日訪れたばかりなのかもしれない。
本間家之墓
その下に、小さな副碑。
そこに「修司」の名があった。
教授はしばらく立ち尽くした。
鞄から、簡素な線香とマッチを取り出し、慣れぬ手つきで火をつけた。
「……すまなかった」
風の音に混じって、低く漏れた言葉だった。
「私が……君の言葉を、盗んだようなものだ。いや、盗んだつもりはなかったが……講義で話してしまった。得意げに、さも自分の考えのように……」
煙がゆっくりと立ちのぼる。
墓地の空は晴れていたが、なぜか薄雲がかかり、影がどこかぼんやりとしていた。
「勝手な話だが……君の声を、もう一度、聞いた気がしたんだ。あの夜。きみの言葉が……“残念賞”が、まだどこかに生きているようで……」
一礼し、香を収めると、教授は墓前に掌をついて、深く頭を下げた。
ひとことも返ってはこなかった。
だが、風の吹く音だけが、少しだけ優しくなったような気がした。
帰り際、誰とも会わなかった。
玄関にも、門扉にも、人の気配はないままだった。
(……きっと、これでよかった)
教授は帰りの電車で、ずっと目を閉じていた。
すべてが終わったように思えた。
その夜は、久しぶりに深く眠れた。
あの青年の顔も、声も、夢には現れなかった。
——けれど。
何かが本当に終わったのか、それとも始まったばかりなのか。
教授はまだ、知る由もなかった。
⸻
大学の構内は、日が落ちると音を失う。
廊下に響くのは、たまに誰かが押す自販機のガタンという音と、空調の微かな唸りだけだった。
教授は書庫から借り出した古い文献を机に積み上げ、ページをめくっていた。
照明はデスクライトのみ。
部屋の四隅は、静かに闇が立ち上がっていた。
「さて……そろそろ纏めておくか」
あれ以来、あの夜の記憶は霧のように遠ざかっていた。
墓参で何かが片付いた気がしていた。
だが、今、再び「言葉」についての論文を綴ろうとすると、胸の奥で鈍い違和感が疼いた。
教授はふと、資料の山の間から、何かがはみ出しているのに気づいた。
白いメモ用紙だった。
そこには、乱暴な筆跡でこう書かれていた。
「誰の言葉だったか、覚えてるか?」
教授は椅子から跳ね上がった。
誰かの悪戯だろうか?
それとも、自分が書いたものを忘れていただけか?
そう思いたかった。
だが、字は明らかに他人のものだった。
しかも、その文字に、見覚えがあった。
記憶のアルバムに、確かにあった。
背後で、ドアの蝶番が、きぃ、と鳴った。
空調の音が止んでいた。
時計の針の音すら、聞こえない。
それなのに、何かの気配だけが、静かに近づいてくるのがわかった。
教授は立ち上がり、資料室を出た。
廊下は薄暗く、非常灯だけが等間隔にぼんやりと灯っていた。
——カツ……カツ……カツ……
誰かの足音が、後ろから響いた。
慌てて早歩きになる。
足音も早くなる。
——カツッ、カツッ、カツッ……
走り出す。
階段を駆け下りる。
呼吸が乱れる。
後ろを振り返れば、きっと——。
だが、振り返ってしまった。
階段の上に、立っていた。
あの青年が。
いや、青年“だったもの”が。
表情がない。
目だけが、こちらを正確に捉えていた。
教授は叫び声をあげて、構内を駆けた。
どこへ行けば助かるのかもわからず、足音だけを響かせて、逃げる。
だが、どこまでも静かだった。
追いかけてくる音が、まったくしない。
それでも、近づいているのはわかった。
耳の後ろに、視線のようなものが貼りついている。
呼吸が苦しくなる。足がもつれる。
資料棟の端に差しかかり、背中を壁に押し当てた瞬間、風のように何かが通った。
何もいない。
誰もいない。
だが——
耳元に、声が落ちてきた。
「……ざんねんしょう」
それは、呼吸のような声だった。
音と音の隙間を縫って、鼓膜に直接、落ちてくる声だった。
教授の膝が崩れた。
冷たい床に額をぶつけても、痛みはなかった。
それ以降の記憶は、断片的だった。
翌朝、早朝の警備員が資料棟の廊下で教授を見つけた。
意識はあったが、ほとんど何も喋らなかった。
ただ、耳を押さえて、繰り返しこう呟いていたという。
「……聞こえたんだ。確かに、あの声が……」
その日を境に、教授は公の場から姿を消した。
そして、「残念賞の起源」に関する論文は——未完のまま、大学の書庫に眠り続けている。
【糸冬】
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