言葉にすることによって失われるものはありますか
質問:言葉にすることで何か大事なものが失われるのでしょうか。村上春樹さんは「物語を総体として受け止めてほしい、言葉で掬おうとするとこぼれ落ちる」と繰り返し語っています。あらすじや感動を説明するのが苦手な私には励みになりますが、あらゆる情報が即座に「解説」されてしまう今の世の中では逆行する考えにも思えます。言葉にするのが得意なため末さんはどう感じますか。
うん、僕は春樹さんの意見に完全に同意なんですよ。むしろ身体の世界で生きているぶん、言葉でこぼれるものの大きさを毎日味わっているので、なおさらね。そもそも言葉って情報を圧縮する装置なんですよね。たとえば「日本」と一語で言えば誰もが日本列島を思い浮かべるけれど、本当に全部を写し取ろうとしたら列島と同じサイズの地図が必要になる。私たちが日常交わす言葉は、その地図を極限まで小さく折りたたんだ.zipファイルみたいなもので、受け手は自分の経験や想像力でそれを展開しているわけです。だから元の世界が100だとしたら、渡せるのは0.0001ぐらいしかなくて、残りの99.9999は受け手側で補うしかない。小説が面白いのは、まさにその余白を読者に渡してくれる点で、書き手の頭の中を全部再現する必要がないし、できないからこそ読み手が自由に潜り込めるんです。
身体も同じで、たとえば僕が「腕を伸ばす」と言った瞬間、実際には関節の角度、皮膚の張り、部屋の匂い、視線の意図……膨大な要素が絡みあっているのに、言葉はその一瞬を細い線にしてしまう。もし全部を伝えようとしたら何十時間でも足りないし、それでも漏れる。つまり言葉は暗闇に投げ込む一筋の光であって、闇全体を照らす投光器ではないんですよね。
それでも僕らはその細い光があるから会話できるし、10秒でやり取りが成立する。圧縮と補完のスピードが人間のすごさで、最近のAI対話は「実は分かっていないかもしれない」と気づかせてくれるけど、それでも成り立ってしまうのが言葉の便利さ。けれど便利さに甘えて何でも「わかった気」になり、すぐ解説を求めると、光が射す前の揺らぎや匂いを味わう時間を失ってしまうんですよね。
だからこそ僕は、説明しないでじわっと体に残るものを抱え込む時間を意識的に増やしたいと思っています。言葉にできない部分こそ体や心を深く震わせるし、そこを雑に翻訳しないまま浸る豊かさが、むしろ情報過多の時代には必要なんじゃないか――そんなふうに感じていますが、さて皆さんはどう思われるでしょうか。
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