悪の凡庸さ
長文ファンの皆さんおはようございます。
ナチスドイツではアウシュビッツなど強制収容所にユダヤ人を送る際、一人一人の人間が罪の意識を感じないように、仕事の切り分けが行われていたそうです。そして関わる人々もそれに乗っかることで、全体像を見ないようにしていました。
第二次大戦が終わった後の裁判では多くの人が
「私は自分の業務に集中していて、そんなことが起きていたとは知らなかった」
と話しました。
それを象徴するような一つのノートがアウシュビッツにあります。そこには服やメガネなど亡くなったユダヤ人の方が身につけていたものが記載されており、中古品として再度市場に出回るようになっていました。戦後、担当者はただやってくる衣服を数えノートに記載するだけで、その衣服がどこから来てどこへ行くかは上司に尋ねず、知らなかったと話しました。
知ろうとしないことはいつの時代も個人の生存戦略として優れています。知ってしまえば個人に責任が生じるからです。それ以外のことに気を使わなければ仕事に集中することもできます。
一方でそれは大きな悪の一部となっていながらそこに罪の意識を感じず、責任も負わないというやり方でもあります。
強制収容所への指導的役割を担っていたアイヒマンは、エルサレムの裁判の中でひたすらに「私は命令に従っただけだ」という主張を繰り返しました。その裁判を傍聴していたハンナアレントは「20世紀最大の悪は凡庸な男によって行われた」と言い「悪の凡庸さ」と名付けました。
自らの意思を放棄し、知ることをやめ、集団に従う凡庸な人々が集まれば、ユダヤ人虐殺のようなとてつもない悪が行われてしまうことを指摘しました。
ドイツは戦後、一人でも徹底的にnoと言える人間を育てるという教育を行います。それは集団の意思決定の際に大変な抵抗が生まれることでもあり民主主義のコストが高まりますが、「悪の凡庸さ」を防ぐ方法でもあるのだと思います。
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