六十八歳、朝からカップメシをかき込む男(セブンイレブン 一風堂メシ 赤丸新味)
赤丸新味と、あの日のじいさん
時々、どうしようもなくチープなものが食べたくなるのである。
吉野家の牛丼でもいい。コンビニのおにぎりでもいい。けれどその朝、オレの手にあったのは、セブンイレブンの棚にあった一風堂メシ 赤丸新味、九十七グラムというやつだった。
日清食品。即席カップライスというものである。
フタの上には、ガーリック香る特製香油の小袋が、ちょこんと載っている。まったく、香油を別にしておくとは小賢しいことを考えるものなのであった。



若い頃、パンも買えない時代があった。
これは比喩ではない。
本当に、パン一個が買えなかったのである。オレはすべてに絶望していた。車のガソリンも尽きた。
だから歩いて、海へ向かったのだ。
砂浜に座っていた。
そこへ、釣り竿とクーラーボックスを提げたじいさんがやってきた。
今のオレよりよほど若かったはずだが、当時はじじいに見えた。人間というのはそういうものである。
じいさんはオレの雰囲気で、何かを察したらしかった。

「一緒に食べないか」
そう言って、カップヌードルを差し出してきた。
「お湯もあるぞ」
説明はなかった。
理由も聞かれなかった。
ただ、あたたかいカップが、オレの手の中にあった。

それからである。オレがカップ麺というものを好きになったのは。
で、今回はカップ麺ではなく、カップメシなのであった。
作り方はばかみたいに簡単である。フタの上の特製香油をはがし、熱湯を内側の線までゆっくりと注ぐ。フタをして五分待つ。それだけだ。五分というのは、人を待たせるには短く、腹を空かせた人間には妙に長い、まことに不思議な時間なのである。
待っている間、外を見た。
五分後。フタをはがす。とんこつの匂いが、ぶわっと立ち上ってきた。そこへ特製香油をたらりと垂らす。ガーリックである。にんにくというものは、こういう時に限って、なぜこんなにも人を裏切らないのだろうかと思わずにはいられない。
木のスプーンで、よくかき混ぜる。

米がスープを吸って、とろりとした雑炊のようになっている。きくらげの黒いやつが、こっちを見ている。ねぎの緑が点々と浮いている。とんこつと、味噌と、コチュジャンと、なにやらいろいろが混ざり合って、これはもう立派な一杯の濃厚メシなのであった。

ひとくち、食べた。
うまい。
血糖値のことが一瞬よぎったが、知らんふりをした。
六十八にもなって、朝からこんなものをうまいうまいと食べている男も、世界中を探してそうはいないだろう。けれどまあ、それでいいのである。
スプーンを動かしながら、あのじいさんのことを思い出していた。
名前も聞かなかった。あれから一度も会っていない。今ごろどこかで、まだ釣りをしているだろうか。いや、たぶんもう、いないのかもしれない。
オレはあの日、海の中で、すべてを終わりにするつもりだった。
けれど、終わりにしなかった。
なぜか書くことだけは、やめなかったのである。
理由はわからない。わからないが、やめなかった。
やめなかったから、週刊誌の連載も経験できた。
商業出版も10冊、キンドル本も84冊も出すことができた。
ストアカの受講生も2870人だ。
あの時のオレが最高峰のプロバッチを持った講師をしている。
人生捨てたもんじゃないのだ。

そして今、九十七グラムのカップメシをかき込みながら、こうして駄文を書いている。
じいさんよ。
あんたがくれたあのカップ麺の湯気を、オレはまだ覚えている。
うまかった。今日のこれも、うまかった。
じいさんのカップヌードルのおかげで、今のオレがいる。
いやはや、いやはや。
まったく、悪くない朝なのであった。
