【おじさんとつむぎのミステリ談義】米澤穂信『真実の10メートル手前』
※今回はネタバレ全開でお送りします。未読の方はご注意ください。
つむぎ:ちょっとおじさん! 布団の上にポテチの袋が三つも転がってるんだけど、これが「ミステリ作家志望の仕事場」?
おじさん:(枕元のポテチを隠しながら)ち、違うぞつむぎ。これは密室におけるスナック菓子の消失トリックを検証していたんだ。
つむぎ:犯人おじさんしかいないでしょ。……はい、今日はこれ。米澤穂信『真実の10メートル手前』。『さよなら妖精』の太刀洗万智が大人になって、記者として事件と向き合う〈ベルーフ〉シリーズの短編集。第155回直木賞候補で、「ミステリが読みたい!」国内1位も獲った一冊だよ。
おじさん:ふっ、知ってるとも。太刀洗万智……たしか、あれだろ、コーンフレークに異常な執念を燃やす名探偵。
つむぎ:半分合ってるのが腹立つ! 最終話「綱渡りの成功例」ね。水害で孤立した老夫婦が「コーンフレークで三日間しのいだ」と報道されたのを見て、太刀洗だけが気づくの。「牛乳をかけたなら、停電した家でどうやって冷やしたの?」って。
おじさん:ミルクボーイより先にコーンフレークの矛盾を突いていたのか……。で、真相は?
つむぎ:土砂に埋まった隣家の冷蔵庫を借りてたの。緊急避難だから誰も責められないはずなのに、老夫婦は罪悪感で押し潰されそうになってる。太刀洗はそれを暴くんじゃなくて、放っておけば「隣の家から食料を盗んだ」って噂に育つ前に、正確な事実を残すために訊くんだよ。質問ひとつで人を救いも壊しもする。だから彼女は言うの。「わたしはいつも綱渡りをしている。いつか落ちるでしょう」って。
おじさん:……おい、それ最終話だろ。もう泣きそうなんだが。
つむぎ:全六編、この密度だからね。表題作は倒産企業の広報・早坂真理の失踪を追う話。雪とノーマルタイヤ、「うどんみたいなの」=ほうとう、チップを受け取る店員……小さな手がかりから居場所を完璧に突き止めるのに、車の窓に目張りを見つけて走り出したときには、もう間に合わない。真実の10メートル手前で、カメラは構えられたまま止まるの。
おじさん:助からないのか!? 普通そこはギリギリ間に合うだろ!
つむぎ:間に合わせないのが米澤穂信。この「救えなかった」重さがあるから、彼女がその後もフリーになって記者を続ける理由に説得力が出るんだよ。逆算の設計が完璧なの。
おじさん:オレの書評眼によれば、つまりこれは「探偵が毎回スカッと勝つ話」ではないんだな。
つむぎ:今日いちばんまともな発言。むしろ逆で、語り手が毎回替わって、旧友、週刊誌記者、中学生、外国から来た男……他人の目から太刀洗が観察され続ける構造なの。「恋累心中」では高校生の心中の裏に、証拠隠滅のために毒の知識を子どもに吹き込んだ大人がいたことが暴かれるし、「ナイフを失われた思い出の中に」では『さよなら妖精』のマーヤのお兄さんが登場して、街を人体になぞらえた暗号を太刀洗と一緒に解いていく。旧作ファンはここで一回本を閉じて天井を見ることになると思う。
おじさん:で、つむぎの一推しは?
つむぎ:「名を刻む死」。孤独死した偏屈な老人が最期に望んだのは「無職と報じられないこと」だった、っていう話。真相解明のあと、罪悪感に囚われた中学生に太刀洗が与える最後の一行――「田上良造は悪い人だから、ろくな死に方をしなかったのよ」。報道が垂れ流す「わかりやすい結論」を批判してきた彼女が、その結論をたった一人の少年を救う薬として処方するの。ミステリの解決が、そのまま倫理の問いになってる。短編の切れ味としては米澤作品でも最高峰クラスだと思う。
おじさん:完璧すぎないか、太刀洗万智。惚れてしまう……。
つむぎ:二次元に恋するのやめなさい。でもね、そこも計算済みで、最後に本人が「特別なことなんて何もない。今回は幸運な成功例というだけ」って自分で崩すの。超人じゃなくて、いつか落ちる覚悟で綱を渡り続けてる人。〈ベルーフ〉ってドイツ語で「職業」と「天職」の両方の意味なんだけど、楽しいからじゃなく、召し出されたからやってる姿がタイトルどおりなんだよ。『王とサーカス』とあわせて読むと効き方が倍になるから、順番は『さよなら妖精』→『王とサーカス』→本作がおすすめ。
おじさん:……なあつむぎ。オレ、わかったよ。名探偵が真実に辿り着く話より、「真実に触れる資格はあるのか」って迷い続ける話のほうが、ずっと難しくてずっと格好いいんだな。
つむぎ:(ちょっと照れて)……たまにはいいこと言うじゃん。じゃあその気づき、ポテチの袋を片付けてから、原稿用紙にぶつけてみせてよ。おじさんの「10メートル手前」で止まってる小説、今度こそゴールまで書くの!
おじさん:よし、書くぞ! その前に腹ごしらえだ。コーンフレークどこだったかな……冷蔵庫の牛乳、まだ生きてるか?
つむぎ:賞味期限の推理からミステリを始めないで!
書誌情報
『真実の10メートル手前』米澤穂信/東京創元社(2015年12月刊、創元推理文庫版は2018年)
収録:真実の10メートル手前/正義漢/恋累心中/名を刻む死/ナイフを失われた思い出の中に/綱渡りの成功例
第155回直木賞候補、「ミステリが読みたい!2017」国内編1位、「このミステリーがすごい!2017」国内編3位

