招く鏡|【狸の掌編】
「ねえ、あの鏡。
時々、中の私だけ、違う顔をするの」
姉は乾いた唇でそう囁き、
自室の姿見を震える指で示した。
その声には、
普段の快活さからは想像もつかない、
奇妙な熱と怯えが混じっている。
私は一瞬息を呑んだが、
すぐにいつもの冗談だろうと無理に笑顔を作り、
曖昧に頷いて聞き流した。
その夜、
姉の部屋は水を打ったように静まり返っていた。
いつもなら微かに聞こえる寝息すら、
闇に吸い込まれたかのように途絶えている。
翌朝、階段を降りてきた姉は、
不気味なほど上機嫌だった。
けれど、その笑顔はまるで精巧な仮面のように硬く、目だけが硝子玉のように光を宿さず、笑っていない。
唇の端が、不自然な角度で引き攣れている。
その顔は「貼り付けられた」笑顔のように見える。
嫌な予感が胸をざわつかせ、
私は姉の部屋の姿見の前に
吸い寄せられるように立った。
古びた樫の縁取りがされた鏡面には、
紛れもない私の姿。
緊張を解すように、試しに右手を振ってみる。
鏡の中の私も、右手を振る。
――だが、ほんの僅か、
呼吸ひとつぶん、動きが遅い。
いや、違う。それは遅延ではない。
鏡の中の私は、まるで私の次の動きを読み取り、
先回りして演じているかのようだ。
全身の血が逆流するような感覚に襲われる。
やがて、鏡の中の私が、ゆっくりと口角を上げた。
私の知る笑顔ではない。
目は氷のように冷たいまま、
唇だけが歪に吊り上がっている。
昨日見た、姉の「貼り付いた笑顔」そのものだった。
値踏みするような、それでいて何かを誘うような視線が、私を射抜く。
鏡の奥から、
姉そっくりのねっとりとした声が響いた。
「お姉ちゃんはね、もうこっちで、
とっても楽しくやってるわ。
…あなたも、こっちへ来ない?
ずっと、ずーっと、素敵な笑顔でいられるわよ」
そう言うと、鏡の中の「私」の背後から、
ぬるりと姉と瓜二つの顔が現れる。
同じ「貼り付いた笑顔」で虚ろな瞳を私に向け、
ゆっくりと、手招きをしていた。
鏡の奥は、底なしの闇が広がっている。
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