カミデンティティ|【狸の短編小説】
世界がまだ眠っている薄闇の中、
私は目を覚ます。
時計の短針が五を指すには、
まだ半時間ほどの猶予があった。
音を殺して寝室を出ると、
ひやりとした廊下が素足を刺す。
家族の誰のものでもない、
私だけの時間が始まる。
洗面所の扉を開ける。
そこは外界の雑音から切り離された、
一種の無響室だった。
鏡の前に立ち、
シャワーで湿った髪と向き合う。
まず、タオルで大まかな水気を吸い取る。
次に柔らかな繊維でできた別のタオルで、
赤子に触れるように優しく頭を包み込む。
水滴の一つひとつが朝の光を弾き、
髪は束の間、水滴の王冠を戴く。
ドライヤーの風は、
熱と冷を細かく行き来させる。
根元を立ち上げ、
毛流れを作るのは道具ではない。
私自身の指先だ。
ミリ単位の調整を終えると、
棚に並ぶ数種類の整髪料から、
今日の湿り気と気分に合う一つを選び出す。
手のひらで透明になるまで練り上げ、
空気を孕ませるように髪に馴染ませる。
最後に、静電気を嫌う柘植の櫛が、
そのキメの細かい歯で、
髪の表面を滑らかに整えていく。
手鏡を使い、死角がないことを確かめた。
これは身だしなみではない。
創造の儀式だ。
***
風の強い日は、鞄で頭を庇うようにして歩く。
電車の扉に映る自分の輪郭を、
私は絶えず監視していた。
数本の髪の乱れは、
世界の調和の乱れに等しい。
学校へ向かう道すがら、
グラウンドの横を通り過ぎる。
練習に励む部員たちの姿が目に入るが、
私の視線は彼らの顔も、
白球の行方も追わない。
ただ、汗に濡れた後頭部に注がれる陽光。
それに照らし出される青い剃り跡。
それはまるで、
管理された家畜の焼印のようだ。
私は眉間に微かなしわを寄せ、
すぐに目を逸らす。
***
家に帰ると、報道番組が付いていた。
画面には、一列で歩く男たちの姿。
刑務所の特集らしい。
全員が同じように髪を刈り上げられ、
その無個性な頭の列は、
陽光を反射してのっぺりとした
均一な光沢を生み出している。
私は箸を置き、
彼らのうなじに刻まれた剃り跡を凝視する。
それは記号であり、
個の死を意味する宣告だ。
食欲が失せ、私は無言で席を立つ。
***
その宣告は、全校集会の場で下された。
「規律を学ぶため」という
陳腐な大義名分とともに、
厳しい頭髪検査の実施が告げられる。
周囲から不満の声が上がる中、
私はただ黙って、壇上の教師を見つめていた。
その顔を決して忘れることはないだろう。
***
検査当日、私は体育館の列に並んだ。
順番が来て、教師が私の髪を無造作に掴む。
そして、冷たい感触とともに、
前髪にプラスチックの定規が押し当てられる。
「長すぎる。明日までに切れ」
簡潔な命令。私は何も言い返さない。
ただ、私の世界を無慈悲な数値に還元した
その定規に、憎しみの目線を送っていた。
***
家に帰り、洗面所の鏡の前に立つ。
引き出しからハサミを取り出し、刃を開く。
だが、鏡の中の自分と目が合うと、
指が震えて動かない。
髪に刃を向けることは、
自らの喉を掻き切ることに等しかった。
私は手にしていたハサミを放り投げ、
代わりに相棒の櫛を掴んでいた。
洗面台の硬い陶器の角に、
力任せに叩きつける。
乾いた破壊音とともに、
長年私の髪を慈しんできた櫛は、
真っ二つに折れた。
続いて、整髪料の蓋を開け、
指でその中身をえぐり出し、
粘り気のある塊をゴミ箱へと叩きつけた。
***
翌朝、私は髪を濡らしたまま、
ただ乱暴に乾かしただけで家を出た。
洗面所の鏡は、
もはや私に何も語りかけてはこない。
ただの冷たいガラス板、
沈黙の鏡がそこにあるだけだった。
教室では、男子生徒たちが頭を突き合わせ、
笑い合っていた。
私はその輪には加わらず、
ただ窓の外を眺めている。
グラウンドでは、部員たちが、
練習終わりに整備をしている。
陽光を浴びて白く光る、無数の丸い頭。
汗で土の付いた、剥き出しのうなじ。
個性を奪われた記号。
ただそこにある、ありふれた風景の一部。
やがて私は踵を返し、家路についた。
短くなった前髪が風に吹かれても、
もう気にならない。

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