幸福な乖離|【狸の掌編】
街灯がアスファルトをまだらに照らす帰り道。
ふと、自分の影に違和感を覚えた。
それは、私の歩みにぴったりと付いてくる、ただの黒い人型、のはずだった。
だが今、私の足元に伸びる影の輪郭が、まるで陽炎のように、水面のように、微かに揺らいで見える。
目を擦り、もう一度見つめる。
気のせいではない。
影は確かに、くゆり、揺れている。
私自身とは異なる意思を持っているかのように。
その日から、私と揺れる影との奇妙な生活が始まった。
私が笑うと、影は一瞬遅れて、悲しむように肩を落とす。
私が早足で歩くと、影は立ち止まりたいかのように、その場に粘りつく。
それは、私が日常の中で押し殺した、小さな本音の欠片たち。
会議で飲み込んだ反論。
友人への見栄で隠した嫉妬。
誰にも言えない、心の奥底の疲労。
私の影は、私が捨てた感情を拾い集め、その揺らぎで無言の主張を繰り返す。
気味が悪いと思う反面、その影をどこか愛おしく感じ始める私がいる。
誰よりも私を理解している、もう一人の自分。
唯一の正直な共犯者。
ある雨の夜。
恋人との些細な口論の末、私は一人アパートに逃げ帰った。
部屋の明かりを点けると、壁に映る影が、今までになく激しく揺らいでいる。
それはもう、揺らぎというより、もだえ苦しんでいるかのようだった。
「もう、疲れたの?」
思わず、壁に向かって囁きかける。
すると、影はぴたりと動きを止め、ゆっくりと、私の方へ振り返る動作をした。
影には、顔などない。
なのに、その視線が痛いほどに突き刺さる。
『疲れたのは、あなたでしょう?』
声ではない声が、脳に直接響いた。
影が初めて私に語りかける。
『
いつも、大丈夫なふりばかりして。
もう、いいじゃない。
…私と、代わってあげる。
』
そう言うと、影は壁からするりと剥がれ落ち、
立体的な黒い輪郭となって、床に立った。
のっぺらぼうのはずの顔に、私のものと寸分違わぬ目鼻が、ゆっくりと浮かび上がる。
ただ一つ、その口元だけが、見たこともないほど安らかな笑みを形作っていた。
影は私に手を差し伸べる。
その向こう側、壁には私の姿が影となって張り付いていた。
輪郭は定まらず、頼りなく揺れている。
抵抗しようにも、指一本動かせない。
私は壁に縫い付けられたまま、私そっくりの顔をしたそれが、玄関のドアを開けて外へ出ていくのをただ見ていることしかできなかった。
やがて、階段を上る足音が聞こえる。
さっき喧嘩した恋人が、私を追ってきたのだろう。
ドアが開き、彼が顔を覗かせる。
そして、部屋の中に立つ「私」を見て、
安堵の表情を浮かべた。
「ごめん、言い過ぎた」
「ううん、私も」
壁の影である私には聞こえないはずの、穏やかな声が、部屋に満ちる。
「私」は、幸せそうに微笑みながら、彼に寄り添っていく。
私はその光景をただ、静かに見つめていた。
もう、揺らぐことさえ、忘れてしまったかのように。
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