ノイズレス 〜僕のいない部屋〜|【狸の掌編】
目覚めは常に完璧だ。
体内時計に同期した照明が、
夜明けの光を忠実に再現し、
僕の瞼を優しく撫でる。
室温、湿度、酸素濃度。
すべてが僕の
最高のパフォーマンスのために最適化されている。
ここは僕だけの城、閉守の揺り籠。
ベッドから起き上がると、
自動で調製された朝食がテーブルに用意されている。
栄養素を分子レベルで配合したペーストと、
味覚センサーに直接働きかける香りの粒子。
今日のテーマはプロヴァンスの朝。
口に含めば、焼きたてのクロワッサンと
ラベンダーの幻影が広がり、
脳は幸福感で満たされる。
もちろん、
本物のパンに含まれる余計な糖質や脂質は一切ない。
完璧な食事だ。
午前中はVR空間での自己研鑽に充てる。
古代ギリシャの哲学者たちと善について討論し、午後にはガウディの未完の構想を
三次元空間で再構築する。
僕の身体は疲労を知らない。
知識欲は尽きることがない。
かつて僕がいた外界は、ノイズに満ちていた。
不確定な他者とのコミュニケーション、
予測不能なアクシデント。
それらはすべて、
僕の純粋な思索を妨げる不純物でしかなかった。
この揺り籠の中では、すべてが僕の意のままになる。
外界との接続は、もう何年も前に断ち切った。
それが僕の幸福のための、最も合理的な選択だった。
窓は常に遮光モードで、外の景色は見えない。
見る必要もない。
夜。一日のルーティンを終え、
瞑想用の椅子に深く身を沈める。
満ち足りた静寂。自己完結した幸福。
これ以上の何を望むというのだろう。
その時だった。
なぜだろうか。今まで感じたことのない、
微かな衝動が胸をよぎる。
それは好奇心と呼ぶにはあまりに淡く、
気まぐれと呼ぶには奇妙に強い、引力を持っていた。
――外が見たい。
本物の空を。星を。あるいは、ただの闇でもいい。
僕は立ち上がり、壁面のパネルに手を伸ばす。
そして、何年も触れることのなかった
遮光モード解除のアイコンに、
そっと指を触れた。
滑らかな音とともに、窓が透明に変わっていく。
そこに広がっていたのは、夜景ではなかった。
赤黒く澱んだ空。
へし折れた鉄骨が墓標のように突き出し、
崩れ落ちたビル群が巨大な骸を晒している。
舞い上がる砂塵が、
死んだ街をゆっくりと覆い隠していく。
文明の残骸。絶対的な静寂。
ああ、そうか。
世界は、終わっていたのか。
不思議と絶望はなかった。
むしろ、その滅びの光景は、
どこか荘厳で美しいとさえ感じた。
僕が求めていた純粋な静寂が、ここにはあった。
満足のため息をつき、
僕はそのガラス窓に目をやった。
滅びの風景を背にした、
満ち足りた僕の姿がそこに映るはずだった。
ガラスに反射していたのは、人型ではない。
僕が立っているはずの部屋の中央。
その空間にはただ一つの青い光点が、
心臓のように静かに明滅している。
視界の隅で僕のしなやかな指先が、
ゆっくりと光の粒子にほどけていく。
僕が感じていたはずの身体の輪郭が、
霧のように曖昧になる。
ああ、そうか。
揺り籠は僕を守る家ではなかった。
僕という存在そのものが、
誰かのための、最後の揺り籠だった。
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