滲む階(にじむきざはし)|【狸の掌編】
古い木造アパートに越してきて一月が経った。
軋む床、隙間風の歌う窓。
その古びた佇まいのすべてを、
私はむしろ気に入っていた。
ただ一つ、あの階段を除いては。
私の部屋は二階の突き当たり。
外へ出るには、
急勾配の木製階段を使わなければならない。
その階段の上から五段目。
そこだけが、なぜかいつもじっとりと湿っている。
最初は前の住人が何かを零した跡か、
あるいは屋根からの雨漏りだろうと軽く考えていた。
だが、どれだけ晴れた日が続いても、
その一段だけは乾くことがない。
雑巾で力を込めて拭き取っても、
数時間もすれば、再び鈍い光を放ち始める。
木の内側からじわりと、
水が滲み出してくるかのように。
大家に尋ねても、
「さあ、昔からですかねえ」と曖昧に笑うだけ。
いつしか私はその不可解な湿り気を
生活の一部として受け入れ始めていた。
ある雨の夜。
仕事を終え、冷えた体を温めようと階下へ向かった。例の五段目に、何気なく足を乗せた瞬間。
――ぞくり。
靴底から、氷水のような冷気が足首を伝い、
背筋を駆け上がった。
同時に、脳裏に見知らぬ光景が閃く。
窓の外で降りしきる雨音。
帰らない誰かを待つ、途方もない寂寥感。
ぽつりと頬を伝う熱い雫。
それは私自身の感情ではない。
なのに、
胸が張り裂けそうなほどの切なさが、
波のように押し寄せては引いていく。
はっと我に返ると、
私は階段の途中で立ち尽くしていた。
足元の湿った木材が、
まるで生き物のように脈打っている錯覚に陥る。
この階段は覚えているのではないか。
かつて、ここで流された誰かの涙を。
拭うこともできず、
木の繊維の奥深くまで染み込んでしまった、
消えない悲しみを。
その日から私は呪われたように、
その「滲む階」に惹きつけられていった。
わざと五段目に触れては、
流れ込んでくる断片的な記憶を手繰り寄せる。
それは、かつてこの部屋に住んでいたという、
一人の女性の記憶らしかった。
恋人の帰りを待ちわびる日々。
交わした約束。果たされなかった再会。
そして、絶望の中で、
この階段に座り込み、ただ静かに泣き続けた夜。
彼女の孤独は、私の孤独と静かに重なり合った。
いつしか他人の記憶に溺れることで、
自らの空虚を埋めていることに気づく。
今夜は、風が窓を叩く嵐の夜だ。
階段へ向かうと、
五段目の滲みはいつになく広がり、
黒々とした水たまりを作っている。
溜め込んだ悲しみが飽和し、
溢れ出しているかのように。
吸い寄せられるように、
裸足のまま冷たい水たまりへと足を踏み入れた。
瞬間、立っていられないほどの激しい渦が、
私の意識を飲み込んでいく。
足が木の中に沈む。溶けていく。
これは罰なのだろうか。
他人の悲しみを好奇心で覗き見た、その罰。
薄れゆく視界の隅、階段の上に、
儚げな女性の影が立っているのが見えた。
彼女は私を憐れむように、
それでいてどこか嬉しそうに微笑んでいる。
『やっと、わかってくれる人が来た』
声ではない声が、
私の存在そのものに溶け込んでいく。
『これで、寂しくない』
翌朝、嵐は嘘のように過ぎ去っていた。
アパートの住人が、何気なく階段を下りてくる。
いつも湿っていたはずの上から五段目は、
からりと乾ききっていた。
その使い古された木目の中に、
苦悶に歪む人の顔のような染みが、
うっすらと浮かび上がっていることに、
誰ひとりとして気づくことはない。
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