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接触記憶|【狸の掌編】

路地裏の突き当たり、
夜露に濡れたまま捨てられていた。

橙色の街灯に照らされたそれは、
一脚の古びた木製の椅子。

使い込まれて滑らかになった肘掛け。
座面には、
誰かの重みを記憶するかのような優しい窪み。


私は、長く待ち続けた誰かに
再会したかのような引力に導かれ、
その椅子を工房へと運び込んだ。

家具修復師の血が騒いだ、と言えば聞こえはいい。
だが本当はその椅子が帯びている、
言いようのない孤独と温もりに、
ただ触れてみたかっただけなのかもしれない。


修復のため、試しに腰を下ろしてみる。
その瞬間、ふわりと知らない花の香りがした。
そして、脳裏に陽だまりの映像が流れ込む。

縁側で編み物をする、指のごつごつした優しい手。
微睡む猫の喉を鳴らす音。
愛しい誰かを待つ、穏やかで少しだけ切ない時間。


「接触記憶」と、私はそれを名付けた。

椅子が、
かつてそこに座っていた人の時間を吸い込み、
記憶が底に沈むように溜め込んでいる。


それから毎晩、
仕事終わりにその椅子へ座ることが日課になった。

ある夜は、
初めて恋文を綴る少年のわくわくする気持ちを。
またある夜は、窓の外の嵐に怯える少女の心細さを。

私は、顔も知らぬ誰かの人生の断片を、
自分のことのように味わった。
今夜も、私は椅子に深く身を沈める。


流れ込んできたのは深い後悔の念。
言えなかった「ごめん」の一言。
取り返しのつかない別れ。

胸が張り裂けそうな痛みが、
私自身の記憶のように胸を抉る。


不意に、工房の電話が鳴った。
受話器を取ると、懐かしい妹の声がする。

「お兄ちゃん?
 明日、母さんの命日だけど、覚えてる?」

一瞬、思考が止まった。
母の顔が思い出せない。
命日も、まるで他人事のように響く。

俺は慌てて電話を切り、自分の両手を見つめた。
この手は、本当に俺のものだろうか。
俺が今感じているこの悲しみは、
果たして誰のものなのだろうか。

工房の隅、
磨き上げられた椅子が静かにそこにある。

その滑らかな座面は、
まるで新しい記憶を待つかのように、
俺を静かに見つめ返していた。

もう、誰の人生を生きているのか、わからなかった。


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