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滲むインクと乾くきみ|【狸の掌編】

しとしと、と窓を打つ音、
僕の世界のぜんぶだった。

この部屋にある椅子もテーブルも床の木目さえ、
みんな優しい雨音を吸い込んでできている。

だから僕は、雨の日が大好きだ。


隣に座る「彼」は、いつも少しだけ悲しそうな顔で、僕のそばにある一冊の絵本を見つめている。

僕が「雨止みの頁」と呼んでいる、
たったひとつの物語。

「ねえ、読んで」

僕がねだると、彼はゆっくりと硬い表紙を開く。

その指先は、僕に触れようとはしない。

ううん、たぶん触れることができないんだ。

物語の主人公は、雫の王子さま。

雨粒から生まれた王子さまは、
雨が降っている間だけ、
美しいお城で暮らすことができる。

雨がやんでしまうと、お城もお姫さまも、
王子さま自身も、乾いた大地に滲んで、
跡形もなく消えてしまうのだ。

「可哀想な話だね」

いつか彼がそう言ったから、僕は首を横に振った。


 ううん。
 また雨が降れば、王子さまは生まれるよ。
 だから、さみしくないんだ。
 」

僕がそう言うと、彼はますます悲しそうな顔で、
僕の頭を撫でるみたいに虚空へ手を伸ばした。

ふと自分の手を見る。

指先が、ほんの少しだけ透けて、
向こう側の床の模様が見える気がした。

僕の輪郭は窓ガラスに映る景色みたいに、
いつも少しだけ揺らいでいる。

鼻を近づけると、インクと古い紙の匂いがした。


雨音が、次第に遠のいていく。

さっきまで世界を包んでいた灰色の帳が薄れ、
雲の切れ間から、鋭い光の筋が差し込んできた。

部屋の隅から、
ゆっくりと色が褪せていくのがわかる。

あれほど確かだった雨音が消えると、
僕を満たしていた何かが、
指の間からこぼれ落ちていくようだ。

「……やだ」

彼の唇から、絞り出すような声が漏れた。

窓の外を見つめるその瞳が、絶望に濡れている。


僕は、彼の足元に滲んだ小さな水たまり
――彼の涙を見て、微笑んだ。

「大丈夫だよ。またすぐに、雨は降るから」


「でも、君は……君が、消えてしまう」

震える声に、僕は静かに答える。


 うん。雨が止んだら、
 僕もこの世界も、滲んで消えてしまうから。
 」

物語の最後のページは、いつだって真っ白なまま。

雫の王子さまが、
乾いた大地に消えていく場面で、いつも終わる。

僕の視界が水彩絵の具を落とした紙のように、
じわりと滲んでいく。

彼の顔も部屋の景色も、
優しい色になって溶け合っていく。

さよなら。また、次の雨の日に。

***

彼は、床に広げた絵本をただ見つめていた。

インクの匂いが立ち上る、描きかけのページ。

少年が微笑みながら、
ゆっくりと紙の地の色に溶けていく。

最後の言葉がインクの染みとなって乾くのを、
彼は息もできずに見守っていた。

窓の外は、残酷なほどに明るい晴天。

絵本の最後の頁は次の雨を待って、
空白のまま残されている。


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