あなたは蓋然性を愛している|【狸の掌編】
世界という名のシミュレーションが始まった刹那。
たった一つの座標で、
『存在する』と『存在しない』という
二律背反の選択をした魂の残響。
それが、彼らの起源だったのかもしれない。
宇宙には時折、
神の計算さえも狂わせる美しいバグが生まれる。
本来一点に収束すべき座標に、
無数の可能性が重ね書きされてしまうエラー。
まるで一枚の紙に、
幾千万のインクで同じ人物を描き続けるような、
途方もない奇跡。
その日、宇宙の始まりから分かたれたバグは、
再びバグに出会った。
少年は少女を見ていた。
快活な少年が物静かな少女を。
臆病な少年が勝ち気な少女を。
数えきれない少年たちが、数えきれない少女たちを。
彼らが互いを「好きだ」と認識した瞬間、
世界の演算が、未曾有の複雑さに悲鳴を上げる。
一つの座標に、
無限の片想いが折り重なってしまったのだから。
***
私が恋した君は、日によって別人だった。
ある日は静かに本を読み、
ある日は汗を流して走り、
またある日は繊細な絵を描いた。
私はその全てに惹かれた。
どの君も、紛れもなく君だったから。
不思議なことに、
君といると私もまた、私でなくなる瞬間がある。
快活な君といると、
内気なはずの私が冗談を飛ばして笑い、
芸術家の君と美術館に行けば、
僕でも知らなかった言葉で絵画を語っていた。
君という鏡が、俺の知らない僕を次々と照らし出す。その出会いが、私の密かな喜びだった。
「
君を見ていると、
まるで自分の中にいる
色々な誰かと話しているみたいで、
不思議と安心するんだ。
」
そう告げると、君はただ寂しそうに微笑んだ。
その微笑みの意味を知ったのは、
雨の降る午後だった。
「
僕は、無数の可能性が重なり合った存在なんだ。
あらゆる世界の僕が、この一点に同時に存在する。
量子的な幽霊なんだよ。
」
その言葉を聞いた瞬間、私の視界がぐにゃりと歪む。
頭が割れそうだった。
だって、その途方もない孤独を、
わたしたちは誰よりも知っていたから。
君が震える声で続ける。
「
もし、君が本気で僕を好きなら……
方法が一つだけある。
君という強い観測者が、
どの世界の僕と一緒にいたいか、
たった一人を選んでくれ。
そうすれば、僕はその一人に確定される。
でも……君が選ばなかった他の僕は、
全てこの世界から消滅する。
」
選択。その言葉が、私の輪郭を溶かし始める。
目の前には、私が愛した無数の君が、
それぞれの瞳でこちらを見つめている。
読書家の君が、静かに僕を見つめている。
彼と図書館で過ごした午後。
スポーツマンの君が、快活に俺に笑いかける。
彼と流した汗の匂い。
芸術家の君が、憂いを帯びた瞳で私に問いかける。
美術館での静かな対話。
そうか。私たちが君を観測していたように、
私たちもまた、君に観測されていたのか。
読書家の君は「知的な僕」を。
スポーツマンの君は「快活な俺」を。
芸術家の君は「繊細な私」を。
それぞれの君が、
それぞれの「わたし」を好きになってくれていた。
この恋は、
無数の「君」と無数の「わたし」が織りなす、
相互的な片想いの集合体だった。
***
一人の彼を選ぶことは、他の彼らを殺すこと。
一人の「わたし」が選ばれることは、
他の「わたし」を消し去ること。
それは、愛する人を救うために、
自分自身を殺すことと同義だった。
バグは、自らを修正するための選択を迫られる。
一つの座標に、一つの存在。
それがこの世界の絶対的なルール。
だが、彼らは選ばなかった。
誰か一人を愛し、残りを切り捨てることも、
誰か一人に愛され、残りを忘れ去ることも、
できなかった。
彼らは、互いに手を伸ばす。
無数の少年たちの手が、
無数の少女たちの手を同時に握りしめる。
『不完全なまま、全てのあなたと共にいたい』
その願いが重なった瞬間、
世界の演算は矛盾に満ちた絶叫を上げる。
エラーを修正するためにエラーを選ぶという、
最大の禁忌。
いずれ彼らは、
この世界から「例外」として消去されるだろう。
しかし、その刹那。
重ね書きされた少年と、重ね書きされた少女は、
初めて一つの完全な「恋人たち」になった。
世界の片隅で、無限の恋人たちが、
束の間の永遠を生きている。
世界の法則に抗い、不完全なまま全てを愛すること。
それこそが、バグである彼らが自ら生み出した、
最後の『選択肢』。
こちらの企画に参加させていただきました。
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