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幽霊だったかもしれない|【狸の短編小説】

 教室の扉をくぐると、必ず息が詰まる。ここの空気は腐っていて、まともに呼吸ができない。

ここには、大量の虫が湧いている。いつも皮膚の上を這い回るそれを、見えない視線と言うらしい。

誰も彼もが、糸で吊られた操り人形のように、同じ角度で首を傾げ、同じタイミングで薄笑いを浮かべる。ここでは、個人の存在は意味をなさず、巨大な何かの意思によって溶かされる。

水槽の底に溜まったヘドロのように、かつて生きていたものの残骸が腐り、混ざり合い、もはや誰が誰だか分からない。

そんな空間でただ一人、彼女だけがはっきり見える。窓際の一番後ろ。光の粒が舞う中で、彼女はいつも外を眺めている。


 朝、僕より早く着いている彼女は、いつも机を掃除している。掃除をするのが好きらしい。

体育の授業が終わると、彼女の上履きが片方だけ濡れていることがある。彼女は何も言わず、含んだ水分を落としている。ドジっ子なのかもしれない。

昼食の時間には、どこからか飛んできた紙くずが、彼女の開いた弁当の上に落ちる。彼女はただ黙ってそれを取り除き、何事もなかったかのように箸を進める。細かいところは気にしないらしい。


 誰も、彼女のことに触れない。まるで、僕にしか見えていない存在のように。彼女が笑ったところも、泣いたところも、一度だって見たことがない。そもそも、彼女の声を聞いた者など、この教室にいるのだろうか。

彼らが彼女を認識できないのか。それとも、認識しないことを選んでいるのか。僕にはわからない。けれど、僕の目には彼女だけが映る。だから、きっと僕も同じだ。


 オレンジ色に染まった水で、溜まっていたヘドロが洗い流され、綺麗になった教室。最後のチャイムが鳴り響いた。澄んだ空気が、肺を満たす空間に、僕と彼女だけが残された。

今しかないと思った。この沈黙を破らなければ、僕も彼女も、この光の中に溶けて消えてしまう。軋む床を鳴らして、彼女の席へ向かう。僕の影に気づき、彼女はゆっくりと顔を上げた。

色素の薄い瞳が、初めて僕を捉える。喉が張り付いて、声がうまく出ない。

きみ、幽霊?

絞り出した声は、ひどく掠れていた。 窓の外ではカラスが鳴いている。 やがて、彼女の唇がわずかに開く。僕が一度も聞いたことのなかった音が、吐息と共にこぼれた。

一緒だね

彼女は僕だけの幻。



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