見出し画像

聴く花びら|【狸の掌編】

夫が愛した庭の片隅、
陽だまりに揺れる名も知らぬ野花。

彼がこの世を去ってからも、
彼女は毎朝それを摘み、
食卓の花瓶に生けることを欠かさなかった。

それは夫の面影を追うような、静かで大切な儀式。

ある朝、ふと気づくと、
花瓶の水がごくりと
喉を鳴らしたかのように減っている。

細い茎に支えられた花々は、
まるで彼女の胸の内に耳を澄ませるかのように、
わずかに首をもたげている。

気のせいだろうか。彼女は首を振った。

しかし、その日から水は目に見えて減り続け、
野花は萎れる気配すら見せない。
それどころか、日に日に鮮烈な色彩を帯びていく。

まるで、彼女の心の奥底に澱む悲しみや
言葉にならない孤独を吸い上げ、
自らの生命の色に変えているかのように。

その不可思議な力強さに、
彼女は言いようのない畏敬の念すら抱き始めていた。

月明かりだけが部屋を青白く照らす、眠れぬ夜。

しん、と静まり返った食卓の方から、
絹が微かに擦れるような音。

息を殺して覗き込むと、
花瓶の野花たちが銀色の月の光を浴びて、
ゆらり、ゆらりと静かに踊っている。

その小さな花弁の一つひとつが、
秘密を打ち明けられるのを待つ
無数の耳のようにぴたりと彼女の方を向いていた。

「……寂しいのかい?」

不意に響いたのは、記憶の底に眠る夫の声。
いや、それよりもっと柔らかく、澄んだ優しい響き。

声は、揺れる花々から、
朝露が滴るように零れ落ちてくるようだった。

ああ、この花たちはずっと
彼女が一人で零したため息も、
夫を想う胸の痛みも、
言葉にできない寂しさも、
全てを聴いていたのだ。

そして今、寡黙なはずの彼らが、
亡き夫に代わって、
温かな慰めを届けようとしてくれている。

込み上げる熱いものを懸命にこらえ、
彼女は花たちに向かって、
小さく、けれど深く頷く。

野花たちは、それに応えるように、
もう一度、優しい吐息のようにそよいだ。

食卓には夫が愛した花々の
静かな佇まいと確かな温もりが、そっと満ちていた。


次の作品はこちら⬇️


❤️お待ちしております

#創作大賞2025 #オールカテゴリ部門 #狸

いいなと思ったら応援しよう!