寂奏箱(せきそうばこ)|【狸の掌編】
アンティークショップの片隅、
埃を被った棚の奥にそれはあった。
手のひらに収まるほどの、黒檀でできた小さな箱。
値札にはただ一言、「寂奏箱」とだけ記されている。
店主の老人は言った。
「
そいつはね、
持ち主の最も静かな記憶を吸い取って、
音に変えるのさ。
ただし、どんな音かは箱の気分次第。
誰も聴いたことがない音だ
」
興味を惹かれた私は、
なけなしの小遣いでそれを手に入れた。
自室に戻り、そっと蓋を開ける。
中は空っぽ。
絹のような黒い布が敷かれているだけ。
期待したような音楽は流れず、
ただ部屋の静寂が深まったように感じられた。
その夜、私は奇妙な夢を見た。
夢の中で、
私は幼い頃に迷い込んだ薄暗い森を歩いている。
心細さで胸がいっぱいになった瞬間、
どこからか微かな音が聞こえてきた。
それは風の音でも、木々の葉擦れでもない。
金属を細い硝子で引っ掻くような、
鋭く、それでいて儚い旋律。
耳にしたことのない、
しかしどこか懐かしいような不安を掻き立てる音。
目が覚めても、その音は耳の奥にこびりついていた。
枕元の「寂奏箱」に目をやると、
蓋がほんの少しだけ開いている。
箱の表面には、
昨日までなかった細い引っ掻き傷のようなものが、
まるで五線譜のように幾筋も刻まれていた。
日を追うごとに、箱の傷は増えていく。
それに呼応するように、
私の夢の中で奏でられる影紡ぎの旋律は、
より複雑に、より物悲しくなっていった。
私が心の奥底にしまい込み、
誰にも語ったことのない後悔や
言葉にできなかった悲しみをなぞるように響く。
ある朝、箱は完全に沈黙していた。
蓋を開けてももうあの奇妙な旋律は聴こえない。
ただ、箱の内側に敷かれた黒い布が、
まるで涙を吸い込んだかのように、
ところどころ濃く湿って見えるだけだった。
私は気づいてしまう。
私の中のいくつかの大切な記憶が、
ごっそりと抜け落ちていることに。
幼い頃に見た森の風景。
初めて感じた孤独の味。
それらを思い出そうとしても、
靄がかかったように曖昧で、掴むことができない。
「寂奏箱」は、
私の最も静かな記憶を演奏し終え、
その記憶そのものを持ち去ってしまったのだろうか。
箱の表面に刻まれた無数の傷は、
もはや楽譜ではなく、
私の失われた記憶の墓標のように見える。
ふと、
箱の底に小さな文字が刻まれているのに気がついた。
今まで気づかなかった、細く、鋭い筆跡。
『次の奏者を、待つ』
この箱は、
私の記憶を糧に新たな静寂を求めている。
私の失われた記憶が、
新たな影紡ぎの旋律として、
次の者の夢の中で、静かに流れ出すのかもしれない。
私自身が誰かの夢に潜む、
音だけの亡霊となるように。
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