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秘める雲|【狸の掌編】

この街には、古くから伝わる奇妙な言い伝えがある。

空が鉛色に染まり、
誰かの溜息でできているかのような、
重たい雲が空を覆う日。

その雲から降る雨に濡れると、
誰かの秘密が心に流れ込んでくるのだと。

人々はそれを畏敬と少しの好奇心を込めて
「秘める雲」と呼んだ。

***

僕は、雲を恐れていた。

僕の胸には、誰にも知られてはならない秘密がある。親友を裏切り彼の恋人を奪った、
浅ましく、そしてどうしようもない過ち。

その罪悪感は、僕の日常に深く根を張り、
いつも心のどこかを重くしていた。


ある日の午後、窓の外が不意に暗くなった。

見上げると、空一面に広がっている。
あの、言い伝え通りの秘める雲が。

街の空気が一変する。

人々は足を早め、口々に何かを囁きながら、
建物の中へと姿を消していく。

まるで空襲警報でも鳴ったかのように、
通りから人の気配が消えていく。

誰もが、他人の秘密にも、
自分の秘密が暴かれることにも怯えている。

僕はアパートの部屋で、
窓を固く閉ざし、息を殺した。

心臓が嫌な音を立てて脈打つ。

頼むから、降らないでくれ。

しかし、祈りは届かない。
ぽつり、と窓ガラスに冷たい染みができる。

それを合図に、
灰色の雨が糸を引くように降り始めた。

街が、秘密のシャワーに打たれている。


僕はカーテンの隙間から外を窺った。

傘を忘れたのだろうか、
一人の男が雨に打たれながら立ち尽くし、
やがてその場に崩れるように膝をついた。

向かいのマンションの窓辺では、
夫婦が激しく何かを言い争っているのが見える。

きっと、雨粒が運んだ誰かの秘密が、
彼らの間に亀裂を入れたのだろう。

この雨は、
人間関係という名の薄い氷を容赦なく砕いていく。


その時だった。

ガタ、と古びた窓枠が風に揺れ、
隙間から数滴の雨が吹き込んできた。

冷たい雫が、僕の左手にぽつぽつと落ちる。


終わった。


僕は目を固く閉じた。

僕の卑劣な秘密が、誰かの心に流れ込む。

親友の耳に届いたら?

彼女に知られたら?

想像するだけで、全身の血が凍るようだった。

だが、数秒経っても何も起こらない。
僕の秘密が暴かれる感覚はない。

代わりに、僕の心に流れ込んできたのは、
全く知らない、誰かの映像だった。


―――それは、僕が裏切った親友の姿。


彼は一人、薄暗い部屋で、
僕と彼女が写った古い写真を見つめている。

その表情に怒りはなく、
ただ深い、深い悲しみが滲んでいた。

そして、彼の心の声が、僕の脳裏に直接響いてくる。


 いつか、あいつが本当に幸せなら、
 それでいいと思える日が来るだろうか。
 』

それは、僕が想像していたような、
裏切りへの憎悪ではなかった。

僕が決して知ることのなかった、
友人の痛みと、そして諦めにも似た優しさだった。

僕の胸を抉ったのは、罪悪感ではない。

自分が奪い、
壊してしまったものの、本当の価値。

涙が、頬を伝った。

自分の涙なのか、
それとも雨が運んできた友人の悲しみなのか、
もうわからなかった。


どれくらい時間が経っただろう。

ふと顔を上げると、雨は上がっていた。
窓の外には、嘘のように澄んだ青空が広がっている。

あの重苦しい秘める雲は跡形もなく消え去り、
代わりに真っ白な、柔らかな雲がいくつか、
のんびりと浮かんでいるだけだった。

僕は立ち上がり、玄関のドアに手をかける。

行かなければならない。
謝って許されることではない。

それでも。


空に浮かぶ白い雲は、
まるで全てを洗い流したかのように、
静かに僕を見下ろしていた。

まるで、
また新たな秘密が空に満ちるのを、
ただ静かに待っているかのように。


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