なぜ今まで一度も小説を書いたことのない医師が、小説を書く決心をしたのか
医師の仕事に、土日や祝日がないことにずいぶんと慣れてしまった、2025年の元旦。緊急手術を終えてようやく今年初のおせちを、夕食として食べようと食卓に座ったその瞬間、テレビの特集が目に入った。
「被爆80周年、ヒロシマ」
この2025年が広島はもちろん、世界にとっていかに特別な一年なのかを伝える番組だった。
これまで幾度となく耳にし、口にもし、診療の合間に語り合ってきたヒロシマと平和の物語。しかし“80年”と改めて数字で突き付けられた途端、自分がどれほど受動的にこの街の歴史にただ乗っかってきたのかを思い知らされた。
何かに突き動かされるような、言いようのない焦燥が胸いっぱいに広がる。
「今ここに生きる自分が、何かしらの形で、今の想いを残さなければならない。そして、多分それは今年に違いない。」
理屈をすべて飛ばして、一人で確信をした。
今年、私は小説を執筆する。
小説の内容が気になる方は、まずこちらをご一読ください▼
あの食卓で食べた黒豆やお雑煮の味と、不思議と早まった自分の脈拍を、今でもありありと覚えている。
私はこれまで医学書や臨床現場の経験を書き記すエッセイの執筆に携わり、事実と再現性を何より重んじる文章を紡いできた。医療を扱う医師という仕事についていて、そして責任が伴うからこそ、虚構は誇大表現につながり、作られたエピソードは時に誤解を生む危険をはらむ。
そう信じていたからこそ、医療のリアリティーやエビデンスを順守して、なるべく誠実に、そして時には華やかな形容詞をあえて捨てることを美徳としてきた。それは医師としては正しい態度だったと思う。
けれど同時に、「事実」では抱きとめきれない痛みや、伝えきれない想いやストーリーが、私の文章からそぎ落とされてしまう実感もあった。広島で生まれ育った自分にとって、あの日の記憶を抱える患者さんや、あの日について広島県民として向き合ってきた人たちの想いは日常にあふれている。
私が研修医の時、末期の告知を受けた翌日に、自分の被爆体験を語ってくれたがん患者さん。リハビリ中に始めてきた、高齢の被爆者の方が語る、長い治療の壮絶な治療体験とその後遺症。戦争を知らない私たちの世代に漂う、被爆者と接することへの不安。
その想いや、悩み、震えに寄り添うには、私がこれまで綴ってきた医学書や、エッセイというものだけでは、足りないのではないか、と薄々感じ始めていた。
そんな鬱屈を一瞬でこじ開けた元旦だった。物語という形でしか届かない真実があるのではないか。
もし自分が綴りたい想いを小説として書いたなら、私が
ヒロシマで生まれ育った一人の人間として
被爆三世として生まれてきた一人の人間として
被爆医療と向き合い続けたヒロシマの医師として
医療の現実の輪郭に、自分やいろんな人たちの想いを重ねることができるのではないか。
そう思い至ったとき、長年自分の表現方法として、向き合えないでいた“フィクション作品の持つ力”こそが、かえって医学のリアリティやナラティブな部分を照らす灯火になり得るという発想が、驚くほど自然と腑に落ちた。
しかし、根拠のない確信は得られたものの、小説創作はまったくの未踏領域だ。
まず私は広島市内の図書館を回り、被爆医療に関する本を読みあさった。原爆資料館の暗い展示室では、写真の中に映る市井の人々の目を凝視し、遺留品に込められた言葉にならない呻きを自分なりにかみ砕いて、書き留めた。
自分の知人をはじめとするあらゆる繋がりを活用し、被爆伝承者へアポイントをとって耳を傾ける日もあれば、所属する広島大学病院の原爆放射線医学研究所に足を運び、被爆後の広島で医療と向き合い続けた医師や医療従事者の手記を紐解き、学ぶ日もあった。
改めて、心に残っていた小説や、気になると思っていた小説をたくさん買い込んで、自分なりに物語構造と伏線の張り方を考え始めたのもこの頃だ。
医療で鍛えた論理的思考は、意外にも物語の骨格を組む作業に役立つのではないか、と手ごたえを感じたときもあった。だが、いつもの手癖のせいだろうか、登場人物はいつの間にか専門用語を連発し、試しに読んでもらった医療従事者で無い友人にはよくわからないと一蹴されてしまった。
医療について、言葉を使って伝えるのは本当に難しい。何度も何度も書き直して、ようやく5月に小説の全体像がぼんやりと明確になった。
そこからは、科学的、そして医学的知見も土台としつつ、自分なりに本当に伝えたいことは何なのかをまとめ続ける作業を続けた。虚構と現実の境界線上でこそ、読んでくれる人に、自分なりに「平和とは何か」を問い返す余白を持てるのでは、と考えたからだ。
書き終えて振り返ると、この小説はあらゆる人に支えられることで形になった。自分でかいたというよりは、途中からはいろんな方々に背中を押してもらって、それをとにかく自分はタイピングして、具現化したというのが正しい表現かもしれない。物語の人物たちの行動や言葉が、自分が思いもよらない方に話を進めたこともあった。小説を書くというのは、能動的であると同時に、自分が捜索した人物や物語に影響を受ける、受動的な創作活動なのだと、身にしみて感じた。
もちろん、この小説がちゃんと物語としての体をなしているかどうかは読者が決めることだし、ヒロシマについて読んでくれる人が考えてくれるきっかけとなるメッセージとして、最適解と呼べるかも分からない。だが少なくとも私は、あの元旦の自分に、「やり遂げた」と胸を張れる。
もしあなたがこの物語を読んで、見たことも、考えたこともなかった世界に一歩足を踏み入れてくれるなら、その瞬間に私たちは同じ、ヒロシマについて考える同行者になる。物語の結末で、平和も人間も地球の未来も一緒に考え直してくれたら、それ以上の喜びはない。
この7月から、毎日一つずつ小説のエピソードを、Talesに投稿していこうと思う。どうかこの物語の結末を、最後まで見届けてもらえると嬉しい。
いいなと思ったら応援しよう!
救急の現場を少しずつ知ったうえで、一般の方々との感覚のズレが少ない今だからこそかける文章を心がけて。
皆様のサポートは、多くの方々に届くような想いが書けるよう、自己研鑽にあてさせていただき記事として還元できたらと考えています。
共感いただけた方は何卒よろしくお願いいたします。