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命を拾ったマチコは、誰よりも厳しかった|人生は一本の列車で変わる話

Project MOON No.02 

人生は、ときどき一本の列車で変わる。

マチコは七人兄弟の三女として、
大正時代に生まれた。
第二次世界大戦が佳境へ向かうころ、
疎開のために
乗るはずだった貨物車を一本見送っている。

妹が熱を出したからだった。
小さな体を気遣いながら、
その日は乗ることを諦めた。

見送った貨物車は、
その後、米軍の銃撃を受けた。
乗っていた人は
全員亡くなったと聞いた。

その話をするとき、
マチコは決して大げさには語らなかった。

それから彼女は、
自分と妹の命を
神様からの贈り物だと思って生きていた。

十六歳で銀行に勤め始めた。
朝の銀行には、
磨かれた床の匂いと、
開店前の静かな緊張が漂っていた。

最初の仕事はお茶くみだった。
湯飲みを並べ、
雑用を引き受け、
先輩の横で算盤を覚え、
少しずつ仕事を身につけていく。

いつの間にか、
銀行員として窓口に立つようになっていた。

地元の方言のなまりを気にして、
標準語も覚えた。
社会人としての振る舞いも、
先輩たちの背中を見ながら身につけていった。

人生は、
誰かに決めてもらうものではない。


女性だからと言われるのが嫌いだった。
これからは女性も働く時代になる。
そう信じていた。
やがて結婚し、
銀行を辞め、
二人の娘を育てた。

夫は優しい人だった。
だが、
「女性はいずれ嫁ぐのだから、大学は必要ない」
と言った。

マチコは小さく首を横に振る。
「娘たちは、必ず大学へ行かせます。」

静かな声だった。
けれど、その言葉は誰にも譲らなかった。
「費用は私が負担します。」

そうして化粧品店を始めた。
銀行で身につけた会計の感覚と、
持ち前の信念で
店は少しずつ利益を積み重ねていく。

店先には季節の風が入り、
近所の人たちが
世間話をしながら化粧品を選んでいた。

二人の娘は大学へ進学し、
東京で暮らした。
やがて卒業すると、
マチコは静かに店を閉めた。
そのあと、
専業主婦へ戻った。

夫と、家が残った。
為替差益で建てたその家は、
彼女が何より大切にしていた場所だった。

磨き上げられた廊下。
きれいに揃えられた履き物。
朝になると障子を開け、
光と風を家へ迎え入れる。
その家には、
暮らしを守る人の手が残っていた。

娘たちは結婚し、
それぞれ家庭を持つ。
長女には三人。
次女には二人の子どもが生まれた。
その次女の最初の子どもが、
私だった。

私が五歳になるころ、
次女は離婚し、実家へ戻ってきた。
マチコは理由を聞かなかった。
責めることもなかった。

ただ、
「おかえり。」
そう言って、
私たちを家へ迎え入れた。

私と妹にとって、
マチコは母親のような存在だった。
母は昼から仕事へ向かい、
帰宅はいつも夜遅かった。
夜になると、
居間にはテレビの音だけが静かに流れる。
マチコはその音を聞きながら、
母の帰りを寝ずに待っていた。

私たちが学校から帰ると、
玄関の戸が開く音に気づき、
台所からゆっくり顔を出す。

穏やかに笑いながらも真剣な目で
「手は洗ったね。」
「ランドセルは先に片付けよう。」
「宿題をしてから遊びに行くんだよ。」

ひととおり小言を言うと、
小さなキャリーバッグをコロコロと引き、
夕食の買い物へ出かけていく。

その後ろ姿は、
小柄なのに不思議と頼もしかった。

気分がいい日は、
ありあわせの食材でおやつを作ってくれた。
私が一番好きだったのは大学芋だった。

油の弾ける音。
甘い蜜の香り。
黒ごまが散る音。
揚げたてを頬張ると、
表面はカリッとしていて、
中はほくほくと柔らかい。

湯気と一緒に甘さが広がる。
マチコは、
私たちが夢中で食べる姿を黙って見つめる。
小さく目を細めると、
そのまま何も言わず
夕食の支度へ戻っていくのだった。



優しい人ほど、怒ると静かになる。
そして、優しさの定義もいろいろある。

マチコは、
いつも穏やかな空気をまとっていた。
だからこそ、
私が母親との約束を守らなかった日や、
マチコが人生をかけて守ってきた
家を傷つけた日は、
その変化がすぐに分かった。

声は大きくならない。
ただ、
目の奥の光が少しだけ変わる。
口元がわずかに結ばれ、
静かに椅子へ腰を下ろす。

「こっちへ来なさい。」
その一言で、
私は何をしたのかを思い返した。

部屋には時計の秒針だけが、
小さく時を刻んでいる。
窓の外では夕方の風が木を揺らし、
台所には
夕食の支度を始める匂いが漂っていた。

そんな何気ない日常の中で、
マチコはゆっくりと話し始める。

「私は、あなたたちのお母さんが
大切なのであって、
あなたたちではないの。」

「お母さんは不憫なのよ。
だから、
あなたはお母さんを大切にしなさい。
頼りになる大人になりなさい。」

少し間を置いて、
今度は家へ視線を向ける。
「この家は、
私が人生をかけて守ってきたものです。
家を傷つけることは、
私の心を傷つけることでもある。
それを分かってほしい。」

静かな言葉は、途切れない。
叱るというより、
何か大切なものを
私へ渡そうとしているようだった。


その時間は、
一時間ほど続く。

私は小学一年生だった。
幼い私には、
一時間という長さは永遠のように思えた。
正座を崩さないように足を動かしながら、
私はただ、
マチコの後ろに掛かった柱時計を見つめていた。

長針が少しずつ進んでいく。
それだけが、
終わりへ近づいていることを教えてくれた。

それでも、
マチコの表情はまだ話し足りないように見える。
唇がゆっくり開き、
次の言葉が生まれそうになる。

私は慌てて口を開いた。

「母さんを幸せにする。」
「家も大切にする。」
そう約束すると、ようやく話は終わる。

週に四日ほど繰り返される、
この静かな時間は、
母にとっても苦しかったようだ。

夜になると、
薄暗い廊下の向こうから
二人の話し声が聞こえてくる。

強く言い返す母。
静かな声で返すマチコ。
襖越しに漏れるそのやり取りを、
私は布団の中でぼんやり聞いていた。

翌朝になると、
何事もなかったように玄関の戸が開く。

「おかえり。」
マチコは
いつもの穏やかな笑顔で私たちを迎え、
小言を言い、
おやつを作り、
子どもはどうあるべきかを話し続ける。

怒った昨日も、
笑う今日も、
マチコの中では
きっと一本の線として繋がっていた。



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