一粒になるまでを何も知らなかった|紀州梅の話
MOON side episode|旅の途中 No.21
和歌山県|みなべ町
千年以上前から、
人類は梅を食べてきた。
それなのに私は、
梅干し一粒の向こう側を、
ほとんど知らなかった。
酸っぱい。
ただ、それだけだった。
初夏の和歌山県みなべ町。
かつて紀伊国と呼ばれたこの地域には、
今も「紀州」という名前が残っている。
紀州梅。
紀州南高梅。
梅干しの売り場でも、
何度も目にしてきた名前だった。
けれど、その言葉の向こう側に
こんな景色が
広がっていることを知らなかった。
山の斜面に沿うように、
梅の木が幾重にも続いている。
その間を縫う細い農道。
緑の中を、
白い軽トラックが
ゆっくり坂を上っていく。
窓を開けると、
湿った土と草木の匂いが入り込み、
遠くから鳥の声が聞こえた。
紙カップのコーヒーを片手に、
その景色を眺める。
ここでは梅が、
町の風景そのものになっていた。
🔴
みなべ町を含む紀南地方では、
四百年以上にわたり梅の栽培が続いてきた。
山が多く、
決して平地に恵まれた土地ではない。
だからこそ人は、
斜面を利用して梅を育ててきた。
現在では和歌山県は、
日本を代表する梅の産地になっている。
そして、この町で生まれたのが
「南高梅」だった。
大粒で、
皮が薄く、
果肉が厚くて柔らかい。
名前は
私もずっと前から知っていた。
けれど産地へ来ると、
ブランドより先に
それを育てている人が見えてくる。
🔴
一粒の向こうには、
一年分の仕事がある。
梅の木の下で、
帽子を深くかぶった男性が
腰を屈めていた。
実を拾う。
手のひらで確かめる。
籠へ入れる。
立ち上がって腰を伸ばし、
額の汗を手の甲で拭う。
少し離れたところでは、
女性が梅を一粒ずつ手に取り、
表面を確かめていた。
指先で転がす。
見分ける。
また次の一粒へ。
会話はほとんど聞こえない。
けれど、
その手だけは休むことなく動いていた。
🔴
そして、収穫したら終わりではない。
選別する。
塩に漬ける。
時間を置く。
太陽の下で干す。
私たちが店頭で見る一粒になるまでに、
いくつもの季節と、
いくつもの人の手が重なっている。
完成品だけを見ていると、
仕事は驚くほど見えなくなるものだ。
🔴
直売所には、
さまざまな梅干しが並んでいた。
昔ながらの塩味。
しそ漬け。
はちみつ漬け。
透明な容器の中には、
大きな梅干しが整然と並んでいる。
観光客らしき女性が、
試食の一粒を口へ運んだ。
噛んだ瞬間、
眉がきゅっと寄る。
「すっぱ。」
隣にいた男性が、
その顔を見て笑った。
店員も笑う。
つられて私も笑った。
私も一粒もらう。
口へ入れる。
酸っぱい。
思わず目を細める。
そして紙カップのコーヒーを一口。
……これは、
あまり合わなかった。

それでも、
もう一度、
手の中の梅干しを見る。
さっきまでなら、
ただの一粒だった。
ただ、今は違う。
山の斜面。
梅の木。
農道を上る軽トラック。
腰を屈めて実を拾っていた農家の方。
一粒ずつ確かめていた指先。
紀州という土地で、
長い時間をかけて受け継がれてきた仕事。
その全部が、
小さな一粒の向こう側にある。
和歌山県みなべ町。
紀州梅は、
この土地の名物というだけではなかった。
山の景色をつくり、
人の仕事をつくり、
町の暮らしをつくってきた。
私はもう一粒、
梅干しを口へ入れた。
やっぱり酸っぱい。
けれど今度は、
すぐには飲み込まなかった。
一粒の梅干しになるまでに
流れてきた時間も一緒に、
少しだけ長く味わってみたかった。
私は口の中で、
その一粒をそっと転がした。
了
▶︎梅干し界のドン、マナミさんの記事
▶︎和歌山梅干し界の山奥さんの記事
どちらも読むだけで、
口がキュッとなります。
ぜひ、お口直しにお読みください。🔴
🌙観測note
この作品に登場したもの
この記事を最後まで読んで
梅干しを食べたくならなかった方へ。
私の力不足です。
食べたくなった方へ。
紀州の力です。🔴
▶︎ 紀州南高梅はこちら
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