市役所で一番怒鳴られるハシモトさん|提出物に勝てないクレームの天才の話
Project MOON No.23
市役所には、
怒鳴られるために座っている人がいる。
そしてその人は出世しない。
少なくとも、
周りにはそう見えていた。
ただ、
「ハシモトさん呼んでもらえますか。」
その一言で、
窓口の空気は
大きく変わった。
◇
市役所ニ階、健康支援課の住民窓口。
番号札の発券機。
長椅子。
記入台。
蛍光灯の白い光。
コピー機の駆動音と、
番号を呼び出す電子音が
静かに響いている。
昼過ぎだった。
窓口の前では、
男性が声を荒らげていた。
「だから納得できないって言ってるんだよ!」
「前回の担当者と話が違うじゃないか。」
「その担当者を呼んでくれよ。」
机へ身を乗り出す。
手に握った番号札が、
少しだけ折れ曲がっていた。
対応していた若い職員は、
必死に説明を続けている。
どうやら前回の担当者が、
必要書類の説明を漏らしていたらしい。
書類不備による差し戻しは、
これで三回目。
住民の不満が爆発したようだった。
若手職員の説明は間違っていない。
制度の説明もできている。
けれど、
話はまったく前に進まなかった。
待合席の人たちも、
なんとなく様子を見ている。
少し張り詰めた空気。
誰も口には出さない。
でも、
この場にいる全員が思っていた。
たぶん、
もうすぐハシモトさんが現れる。
その時だった。
奥の席から、
ハシモトさんが立ち上がった。
◇
四十代。
短髪。
日に焼けた肌。
黒縁眼鏡。
紺色の地味なシャツ。
歩く姿も静かだった。
窓口へ向かいながら、
眼鏡を指で少し押し上げる。
若手職員の横へ立つ。
相手の目を見る。
でも睨まない。
急がない。
焦らない。
少しだけ前傾姿勢になって言った。
「どうされましたか。」
声は大きくない。
それでも、
なぜかその場の全員にしっかりと届いていた。
◇
ハシモトさんは、
市役所の中では少し変わった人だった。
クレーム対応は抜群に上手い。
ただ、
それ以外の業務は
意外とそうでもない。
デスクの上には、
いつも書類が積み上がっている。
回覧板。
申請書。
付箋。
開いたままのファイル。
どこから手を付ければいいのか、
周囲にもよく分からない。
提出期限を忘れる。
報告書も後回しになる。
上司から声を掛けられることも多かった。
「あ。」
小さく声を漏らす。
それから
少し恥ずかしそうに笑う。
だから評価は上がらない。
昇進の話も出ない。
◇
健康支援課の中で、
ハシモトさんは
1番、
人の怒りを
受け止める人だった。
そして
1番
提出期限を
受け止め損ねる人でもあった。
いや、
そもそも
遅いというより忘れていた。
何度催促されても、
その提出物が
目的地へたどり着くことはない。
それなのに。
住民からクレームがあると、
みんなハシモトさんの登場に期待する。
◇
「それは困りますよね。」
男性の怒りは、
まったく収まっていない。
でも、
ハシモトさんは
反論しない。
謝らない。
説得もしない。
ただ聞いている。
「そう思われますよね。」
小さく頷く。
メモを取る。
また頷く。
相手の言葉を遮らない。
先ほどまで興奮して
窓口へ向けて怒鳴っていた声が、
机を叩いていた手が、
少しずつ止まる。
大きかった声が、
少しずつ小さくなる。
若手職員は横で見ていた。
制度の説明なんてしていない。
謝罪もしていない。
それなのに――。
話はなぜか
少しずつ前へ進んでいた。
ゆでだこのように真っ赤だった
男性の熱量が、
目に見えて下がっていく。
十分ほど経った頃には、
男性は
最初とは別人のように静かになっていた。
そして…
「分かりました。」
そう言って
穏やかな顔をして帰っていく。
ハシモトさんは、
深く息を吐くわけでもない。
平然とした顔で、
次の業務へと向かっていった。
◇
昔は訪問販売をしていたらしい。
インターホンを押す。
断られる。
怒鳴られる。
ドアを閉められる。
暴言を吐かれる。
閉まりかけた玄関ドアに足を差し込み、
「三分だけ聞いてください。」
と言っていた時代があったそうだ。
今なら問題になりそうな話だが。
でも、
その頃から
人に怒られることには慣れていた。
理不尽な言葉。
強い感情。
拒絶。
そういうものを
全身で受け止め続けてきた。
だからなのかもしれない。
感情をぶつけられても、
ほとんど視線は揺るがない。
その目の奥は、
どこか少し笑っているようにも見えた。
◇
ただ。
自分のミスには弱かった。
夕方。
上司が書類を持ってくる。
「ハシモトさん。
この添付資料、抜けてるよ。」
ハシモトさんは止まる。
書類を見る。
数秒固まる。
それから、
少しだけ眉を下げた。
「あ。」
「すみません。」
窓口で怒鳴られている時より、
明らかに気まずそうだった。
周囲は少し笑う。
ハシモトさんも、
照れたように笑った。
◇
閉庁時間だった。
住民は帰り、
館内は静かになっている。
蛍光灯の音だけが残っていた。
若手職員が声をかける。
「今日のクレーム対応、
ありがとうございました。」
少し迷ってから続けた。
「…大丈夫でしたか?」
本来なら、
そんな言葉が出るのも当然だった。
机を叩かれた。
怒鳴られた。
制度への不満も、
担当者への怒りも、
市役所内に響き渡るような
大声でぶつけられていた。
それなのに。
ハシモトさんは、
机の上の書類を見ながら首を傾げた。
「どれのことだっけ?」
本当に覚えていない様子だった。
若手職員は思わず笑う。
どうやらハシモトさんにとって、
あの程度の修羅場は
数時間もすれば
過去のこととなるらしい。
◇
その直後だった。
積み上がった書類の山を見て、
ハシモトさんが小さく声を漏らした。
「あ。」
未提出の報告書が出てきたらしい。
今度は本当に困った顔をしている。
若手職員が笑う。
ハシモトさんも、
照れたように笑った。
窓口で怒鳴られている時には、
見せない表情だった。
ハシモトさんにとっては、
理不尽なクレームよりも。
提出期限の方が、
ずっと手強い相手だった。
その時だった。
背後から、
ゆっくりと人影が近づいてくる。
総務の主任だった。
呆れたような顔をしている。
そして書類の山を見た。
ハシモトさんも振り返る。
二人の視線が合った。
「あ。」
今度は
さっきより少しだけ小さい声だった。
蛍光灯の下で、
若手職員が吹き出した。
市役所には今日も、
怒鳴られるために座っている人がいる。
提出物に追われながら。
期限に追われながら。
それでも翌朝には、
何事もなかったように窓口へ座り、
「どうされましたか。」
と、いつもの声で出迎えている。
了
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