「30歳、失恋をしたら年下のペットができました。ただし、まったく可愛くない。」第2話
フレックスのコアタイム、ぎりぎりで駆け込んだオフィス。
もう秋だというのに、駅から走ったせいで、汗でブラウスがしっとりと肌に張り付いた。
……本当に朝から散々だった。
酒はやめよう、酒だけはもう飲まん。
結局、天音という男は置いたまま会社に来てしまった。
見ず知らずの男を家に置いておくなんて、と思ったけれど、気づけば家を出る時間をとっくに過ぎていて、天音はベッドから起き上がるどころか服を着る気さえない。
いっそのこと休みにしてやろうかと思ったけれど、あいにく今日は午前中に大切な会議が入っているため、そんなことはできなかった。
いざという時の為に、貴重品をまとめておいてよかった……。
カバンの中に大切にしまい込んだ貴重品バッグには、通帳や印鑑、万が一の時のタンス預金など大切なものが入っている。ひとまず、これがあれば大丈夫だろう。
それに、家には飼い猫の大将のために買った、ペットモニターがある。
天音にもそのことは伝え、変な行動を取れば警察に連絡すると言ってあるから、ひとまず安心だ。……安心ではないけれど。合鍵なんて作られたら洒落にならないし。
最悪の事態が頭を過りながらも、今はどうすることもできず、目の前の仕事へと意識を切り替える。
すると背後から、軽やかな声が落ちて来た。
「めずらしいな、月島がぎりぎりなの」
「本郷さん……」
マーケティング本部マネージャーである本郷さんは、私の三つ年上の先輩であり、直属の上司。
本郷さんはキャリア採用の中途入社で、一緒に仕事をしてもう五年以上になる。
優秀でコミュニケーション能力も高く、その上容姿端麗。
男女ともに慕われていて、まさにできる男だ。
「あらかた飲みすぎたってところか」
「っ、どうしてそれを……」
「月島のこと何年見てると思ってるんだよ」
「あはは……そうですよね。すみません、ちょっと寝坊しちゃって……」
「誕生日くらい気にするな。若宮と飲んでたんだろ」
「あ……」
どこから漏れたんだろう。
昨日の夜ばたばたと帰った時に、同僚に話したような話してないような。
瑛太とは部署は違うけれど、マーケティングと営業の仲は密接で。
さらに長く付き合っているだけあって、職場では平気でそういう話が出たりする。
だからいつものようにへらっと笑って返せばいいのに、なんだかうまく笑えなかった。
瑛太とのことも、いずれ職場にバレちゃうよね、別れたって。
そうなったら、自分から話すべきなんだろうか。それとも……。
職場でプライベートなことを話す必要はないのに。ここまでオープンになっていると扱いに困る。
黙り込んだ私の顔を、本郷さんが不思議そうに覗き込んだ。
「……月島?」
「っ、すみません。仕事はちゃんとしますから大丈夫です。今日A社との打ち合わせですもんね」
「あ、ああ。俺も出席するから、資料先に共有してくれると助かる」
「わかりました、すぐ送りますね」
今日はコンビニエンスストア運営会社とのコラボ商品企画のキックオフ会議。
私は今回そのプロジェクトリーダーを任されているため、どうしても休むわけにはいかなかった。
気がかりなことはたくさんある。でも、仕事に集中しないと。
ふるふると首を振って、パソコンへ意識を向ける。
本郷さんはしばしの間私の横に立っていたけれど、すぐに自席へと戻っていった。
無事、会議が終わり、ほっとひと息ついた昼下がり。
私は給湯室へと向かいながら、スマホの画面を見つめていた。
……いない。さすがに帰ったかな。
画面にうつっているのは、ペットモニターにうつる自分の部屋。
残念ながらカメラの位置的に、部屋を隅々まで見れるわけではないけれど、少なくともここ数時間人の気配はなし。
打ち合わせの間に出て行ったのだろうか。確かめるにも連絡先も何も知らないので、どうしようもない。
連絡先すら知らない人を家にあげて、しかも寝るってどうした私……。
これまで男性と一夜限りの関係を持ったこともないし、経験人数だって多くないため、慣れない出来事に未だ頭が混乱する。
でも、突拍子もないことをしてしまうくらい昨夜の出来事がショックだったのだ。
本当に私たちこのまま終わりなのかな……。
瑛太との別れ話を思い出し、視線が下へと向く。
ぼうっとしていたせいで、向かいから歩いてきた人とぶつかりそうになってしまった。
「わっ、ごめんなさい……!」
咄嗟に謝って、その人物を見て言葉を失う。
そこにいたのは、昨日から連絡のひとつやくれやしない瑛太の姿だった。
「あ……」
瑛太は私を見るなり、気まずそうにその場を去ろうとする。
それが許せなくて、その背中に声をかけていた。
「待って! 昨日のあれ、何なの? ちゃんと説明してよ」
「……手紙の通りだよ」
「さすがにありえないでしょ、別れ話を手紙ひとつで済ませようなんて」
「べつに方法なんでもいいだろ、どうせ別れるんなら」
「はあっ?」
「最後に美味い飯食えただけ感謝しろよ」
瑛太は面倒くさがりで雑なところがある。
仕事においても結果主義で、手段は選ばないタイプだ。
そんな性格に多少思うところはあったものの、別れる時までそんなことを言われるとは思わなかった。
「そんな言い方ってないでしょ……。そもそも急に別れるだなんて理由も言わずに――」
「他に好きな奴ができた。それだけ」
「え……?」
予想もしていなかった事実に目を丸くする。
浮気されている気配なんて、なかったのに。
ショックを受けつつも、なるべく落ち着いた声で瑛太に問う。
「相手は誰?」
「……言うわけないじゃん」
「何それ、まさか私が知ってる人?」
私の目を見ようともしない瑛太に、やや強めに問いかける。
だけど、彼は依然として口を割ろうとしない。代わりに、盛大にため息をついた。
「とにかくそういうことだから。今までありがとな」
手紙と同じ言葉を告げられ、昨夜の出来事はすべて現実だと再認識する。
でも……本当に本当に、終わりなの? しかもこんなあっさり?
「瑛太――」
もう一度かけた声が、給湯室から聞こえた物音と被る。
誰かが近くにいるとわかり口を噤むと、その隙に瑛太はオフィスへと戻っていった。
後ろ姿から伝わってくるのは、拒絶。
胸が痛みながらも給湯室へと入ると、そこにいたのは、私がよく知る後輩の姿だった。
「荒木さん……?」
「あ……お疲れ様です」
荒木紬(あらきつむぎ)――昨年新卒で私の部署に配属になった後輩。
ふわふわの栗色の髪と、真っ白い肌。そして一度聞いたら忘れないような、耳に残る砂糖菓子みたいな甘ったるい声。
小動物のようで愛嬌のある彼女は、典型的な男性ウケが良く女性ウケが悪いタイプだ。
彼女が給湯室にいたということは……。
「月島さん、若宮さんと別れちゃったんですか……?」
……やっぱり聞いてたか。
会社でする話ではなかったと迂闊な自分を反省する。
返答に困っていると、荒木さんははっとして言い換えた。
「すみません! 社内公認のおしどりカップルがそう簡単に別れるわけないですよねっ。喧嘩でもしちゃったんですか?」
にっこりと嫌味のない笑みを向けられて、ギクリとする。
だけど後輩にプライベートな話をするわけにもいかず、私は「まあそんなとこ」と誤魔化しコーヒーメーカーのスイッチを入れた。
「……ふうん、意外ですね。お二人も喧嘩とかするんですね」
早く話を終わらせたいのに、荒木さんは構わず私たちの話を続ける。
瑛太ともそんなに接点はないはずなのに、昔からやけにプライベートな話を振って来るから少し苦手だった。
「でもきっと大丈夫ですよ! おふたりはお付き合いも長いですし、すぐに仲直りできますよ~。それに、もうすぐ結婚されるんですよね」
「えっ? 誰から聞いたの?」
「あ、いえ噂ですよ、噂。実際の所どうなんですか?」
「……そんな予定ないよ」
昨日までなら「さあどうだろうね」なんて誤魔化しただろうけれど、今その可能性は限りなく低い。
だけど、やっぱり別れたことだけは、私が一番信じられなかった。
本当に瑛太は、あのたった一言で私と別れたつもりなの……?
浮気してたって一体いつから?
聞きたいことがたくさんあるのに聞けなくて。悔しさのあまり、ぐっと唇を噛み締めた。
「ただいま~……」
家に帰ると、玄関の電気が自動でつく。
そして、一日中お留守番をしていた大将が玄関のドアの傍で待っているのだ。
普段はべたべたしてこないのに、甘えたいときは甘えてくる。
猫とは可愛いしか取り柄がない生き物、なんていう人もいるけれど、それが可愛くてたまらない。
おかげでもう何年もしている一人暮らしだって、寂しいと感じたことはない。
そのはずなのに……。
「大将……?」
いつも迎えに来るはずのふわふわのシルエットが見当たらず、暗闇へと問いかける。
なんだか嫌な予感がして……私はパンプスを脱ぎ捨てると、部屋の中へと踏み入れた。
単身用の1DK。開けっ放しのカーテンから差し込んだ月明りに照らされて、思いもよらない光景が飛び込んで来た。
私の迎えを待っているはずの大将は、ベッドの上でひっくり返って寛いでいる。
飼った覚えもない、大きな猫のような男と共に。
おそるおそる覗き込めば、彼は小さな寝息を立てて熟睡している。
「何でいるの……?」
思わず声が漏れると、切れ長の目が薄っすらと開いて……。
「きゃっ!?」
私はベッドの上へと引き寄せられた。
「んー……おかえり……いい子してて待ってたでしょ」
「ちょっと――」
「よしよし、して」
抱きとめられた腕の中、見上げれば大きな猫が寝ぼけながら笑った。
だけどその笑顔はちっとも可愛くなくて。どう見ても、悪い男の顔だった――
