「30歳、失恋をしたら年下のペットができました。ただし、まったく可愛くない。」第3話
「――するか!」
ペチン、と叩いた上半身は、未だ生々しいまま。
男はやっと目を覚ますと、大将の喉元を柔らかく撫でながら「残念」と、残念そうでもなくこぼした。
「ていうか君――」
「天音」
「……何でもいいけど、何でまだいるの? 帰ったと思ったのに」
「んー? 寝てただけだよ。カメラで監視してたんじゃなかったの?」
「ベッドは死角になってて……」
「なんだ。昨日の夜の録画、後で見れるかもって思ったのに」
「録画……? ……っ、撮ってても見せるか!」
天音と名乗った男は、へらりと悪気なく笑う。
「そもそも私、起きたら帰ってって言ったよね?」
「今まで寝てたんだもん」
「うそでしょ……?」
「ほんと。こんなに長い時間寝たの久しぶりだからつい寝すぎちゃった」
ふわあっと無防備にあくびをして、天音が起き上がる。
確かに上裸なのも今朝と何も変わっていないし、嘘はついていなさそうだ。
「……寝てたのはわかったけど、もう遅いから帰って」
「え、飼ってくれるって言ったのに」
「だからそれは酔ってたからで……」
「まさか弄んで捨てるつもり……? 俺、はじめてだったのに」
「嘘をつくな……!」
天音がしゅんと悲しそうな顔をするけれど、騙されるわけにはいかない。
今は面倒な状況をどうにかしてやらないと。
「とにかくもう家に帰って……」
「帰る家なんてないよ」
「はい……? ホームレスでもあるまいし、一体どうやって生活して……」
「親切な人の所を転々と?」
……うん、この子危険だ。絶対居座られないようにしないと。
冗談かもしれないけれど、本当にそんな感じもしてくる。
それこそ、この子を飼っている女性がごまんといそうだもの。
私みたいな平凡なOLじゃなくて、それこそお金持ちのおばさまとか。
「残念ながら私は親切な人じゃないし、君を飼うほどのお金はないから――」
「そうだ、結依ちゃん腹空かない? 俺ずっと寝てたからぺっこぺこ」
「今はそんな話……」
「今後のことは食べてから考えよーよ。結依ちゃんもお腹、空いてそうだし」
起き上がった天音につん、とお腹が突かれると、反射的にぐうとお腹が鳴って恥ずかしくなる。
呑気に夕食なんて食べてる暇はないのに……。
私は流されるままにキッチンへと向かった。
「うわー、引くほど何もないね」
冷蔵庫を開けて、天音が感想を漏らす。
冷蔵庫の中には、缶チューハイとつまみ用のキムチと、中途半端に残った卵が一個。冷凍庫にはいつか買って使わなかったカット野菜が無造作に入れられていた。
料理は基本的にしない。食事は外食かスーパーで惣菜を買ったほうが楽だし美味しいから。
「適当に頼めばいいよ、今から家出るの面倒だし」
「それまで待てなくない? 何かしらは作れるっしょ」
天音がなけなしの食材を取り出し、冷蔵庫の上にあるパックご飯を狭いキッチン台の上に置いて行く。
そして最後に冷蔵庫の奥で転がっていた「焼き肉のタレ」を手に取った。
「調味料ってこれだけ?」
「っ、そうだよ……万能でしょ、焼き肉のタレ」
以前、自社製品のサンプルとしてもらったタレ。
一本で味が決まるからと自炊に使おうと思っていたけれど、結局使ったのは二回で飽きてしまったのだ。味にも自分で作ることにも。
「これだけあれば十分だわ。結依ちゃんは向こうで待ってて」
「え……」
「泊めてもらったお礼」
天音は賞味期限が過ぎるのを待って捨てられるだけの焼き肉のタレを取り出すと、得意げに笑った。
ローテーブルの上に、二つの器が並ぶ。
焼き肉のタレで野菜炒めを作るのだろうという読みは外れ……ほどなくして出てきたのは、ほかほかの野菜クッパだった。
キムチで赤く染まったスープ、匂いはまるで焼肉屋で食べるユッケジャンクッパのよう。
あの食材でクッパを作ろうだなんて、私じゃ絶対思いつかない……。
「食べないの? 心配しなくても毒なんて入れてないよ?」
「心配はしてないけど……」
「じゃあ、はいあーん」
「自分でできるから!」
天音がスプーンでひとくちクッパを掬い上げて私に差し出す。
私はとっさに自分の手でそれを奪い取ると、あらためて口へと運んだ。
「……いただきます」
控えめに告げて、おそるおそる口に入れる。
すると、焼き肉のタレとは思えない味が口の中に広がった。
「うまっ……え、何。プロ?」
あまりに美味しくて、目をぱちくりとさせる。
そのまま二口、三口と食べ進めていくと、天音がははっと吹き出す。
「焼き肉のタレが万能って言ったのは結依ちゃんじゃん。俺も食べよーっと」
天音は猫舌なのか、クッパをふうふうと何度も冷ましてから口へと運ぶ。
その仕草は可愛いというよりなんだか上品で、つい見つめてしまった。
家がないっていうから大丈夫かなって思ったけれど、彼は清潔感もあるし、着ている服からだって安っぽさを感じない。それどころか、高そうにも見える。
本当は金持ち? やっぱり、誰かに飼ってもらってるとか? もしかして私カモにされようとしてる……?
「どうしたの、そんなに見つめて」
「あ……」
いろんな考えを巡らせていたら、天音に突っ込まれてはっとする。
そして彼はきれいな顔で、「俺のこと飼う気になった?」と微笑んだ。
「料理もできるし、結依ちゃん望むならそれ以外の家事もしてあげよっか」
「えっ」
「ね、悪くない条件でしょ」
私は料理以外の家事も苦手だ。
気を抜けばすぐ部屋は荒れるし、少しでも負担を減らしたいと、ボーナスの度に時短家電が増えていく。
それでもどうしてもやらなきゃいけない家事の方が圧倒的に多くて、家政婦でも雇えたらと何度思ったことか。
イケメンの住み込みの家政婦を雇う感覚で……と気持ちが傾きかけて、すぐに首をふった。
「ありえない……私君のことよく知らないし」
「今から知っていけば良くない?」
「べつに知りたくもないし。それに私は彼氏が――」
「昨日別れたって言ってたじゃん」
「っ、それは……」
確かに、昨日瑛太と別れたからこそ天音と出会い、こんな状況になっているのだ。
昼間の瑛太の様子からもとっくに私たちは終わっているだろうし、何の問題もない。だけど――
「まだ、どうなるかわかんないから」
やっぱり受け入れられないのだ。
長く付き合い結婚まで考えた恋人が、急に他に好きな人ができたと一方的に別れを告げてきたこと。
だからどこかで、あれは気の迷いで、頭が冷えたら元通りになるんじゃないかって淡い期待が消えてくれない。
だけど天音は私の希望を打ち砕くように「ありえないよ」と言い切った。
「たとえまたヨリを戻したとしても、一度壊れた関係を完全に元通りには無理でしょ」
「そんなこと……」
「わかるよ。浮気するヤツなんて、どうせまた繰り返すから。そういう病気なんだよ」
今までと打って変わって、冷たく吐き捨てられる。
それでも瑛太は違うと思いたい自分がいて……。
「違う。浮気だって今回がはじめてだし、何か理由があって――」
「実際されちゃってるじゃん。結依ちゃんが気づかなかっただけであって今までもあったんじゃない?」
「なっ――」
「自分守るために元カレのこと美化するのは虚しくなるだけだからやめたほうがいいよ」
「っ……」
図星だ。十個も年下の男に正論を返されて、虚しくなる。
わかってる。浮気されていたのは事実で、元通りは難しいだろうってことは。
だけど――
「昨日会ったばかりの君に、言われる筋合いはない」
私のことも、ましてや瑛太のことも何も知らないくせに。
一般論で決めつけられたくはなくて、そう言い返す。
「それ食べたら出てって。迷惑料なら払うから」
私はムキになって、そう告げていた。
天音はやや目を見開いて……小さく肩を竦めた。
「ん。ごめん、適当なこと言って」
◇ ◇ ◇
あの後、天音はちゃんと部屋を出て行き、数日が経った。
彼は何も間違ったことは言っていないのに言い過ぎたんじゃないかと不安にもなったけれど、今更だ。
もちろん連絡先なんてものは交換していないし、もう二度と会うこともないのだから。
ちなみに迷惑料としていくらか渡そうとしたお金は、すべて断られてしまった。
金も受け取らず、彼が何をしたかったのかはよくわからないけれど……変に心を許して寄生でもされたりしたら困るし、これでよかった気がする。
会議が長引いた定時間際。そんなことを言い聞かせながら、デスクへ戻ろうと歩いていると、見覚えのある後ろ姿を見つけた。
「瑛太……?」
瑛太がふらっと入っていったのは、資料室。
最近ではペーパーレス化が進み、紙での保管は少なくなったから資料室なんて利用する人は滅多にいないのに珍しい。
……普通に入って、鉢合わせたら資料を取りに来たって言えばいいよね。
資料室のドアは分厚い。耳を澄ませても何も聞こえず、なるべく音が聞こえないようにゆっくりとドアノブに手をかける。
「――さすがに会社で会うのはまずいだろ」
私の気配には気づいていないのか、奥から瑛太の声が微かに聞こえて来る。
さらにそっと踏み込んで耳を澄ますと――
「大丈夫、今まで誰にもバレてないんだから。月島さんにもね」
ふふっと、女性の声が聞こえる。
耳の奥にへばりつくような、甘ったるい声はこの社内にひとりしかいない――荒木さんの声に、私はその場から動けなくなってしまった。
