【本編無料】手のひらのおまじない|ショートショート
手のひらに人差し指を乗せて右に3回弧を描くように回しなさい。
子供の頃、祖母から教えてもらったおまじないだ。確か、教えてもらったのは曽祖母の家の預けられた夜だった。
僕の両親は仕事の忙しい人だった。夏休みに入った僕の面倒を曽祖母に任せたのだ。曽祖母の家は車で20分ほどの場所にあり、そこまで遠くはなかった。でも、小学2年生だった僕にとって異国にも思えるほどの距離を感じていた。普段住んでいる場所より街灯が少なく、畑から漂う牛糞の臭いが遥か遠くまで来たことを押し付けきた。
曽祖母の家には何度も行ったことがある。しかし夜を迎えたのは初めてだった。ほとんど昼間に訪れて夕方には帰った。僕はこの家に夜があることを知らなかった。
初めて迎えた夜。曽祖母と2人で過ごすには大き過ぎる家で時々聞こえる「パキッ」という家鳴りが身体をビクつかせた。数年前に死んだ曽祖父がひょっこり顔を出すのではないかと怖かった。曽祖母の家には大きな時計があった。1時間ごとに「ボーーンボーーン」と音を鳴らすのが怖かった。床が冷たかった。線香の匂いがした。時折、遠くで「ジジッ」と聞こえる蝉の音が怖かった。家の前を走り抜ける車の音が怪獣の声に聞こえた。遠くで聞こえる犬の遠吠えが良くないことが起こると知らせていた。
僕は家に帰りたいと泣き喚いた。それはこの世の終わりを悟ったのではないかと思わせるほど。その時、曽祖母がさっきの「手のひらに人差し指を乗せて右に3回弧を描くように回しなさい。」というおまじないを教えてくれた。
僕は曽祖母に抱き抱えられたまま何度も何度も手の上で人差し指を動かした。3回というルールを無視して永遠に回した。鼻水を啜りながら何度も何度も指を回した。その動きを目で追っているうちに僕は眠りについた。多分そうだ。気づいたら朝だった。
1回夜を抜けるとその先は怖くなかった。曽祖母から教えてもらったおまじないが守ってくれた。何度だっておまじないは効いた。
それから僕は学校でも自分を勇気づけたい時におまじないをするようになった。先生に当てられそうになった時、テストの直前、野球で打順が回って来た時、給食に嫌いな野菜が出た時、近所の犬が怖かった時、いろんな時におまじないを使った。そして不思議と良い方向に進んで行った。
しかし、いつからだろう。おまじないの存在をすっかり忘れていた。おまじないに頼る必要がなくなったのかもしれない。ただ、今まで1ミリも思い出さなかったのは曽祖母を忘れていたみたいで胸が痛い。申し訳ない。
しかし、なぜ今思い出したのか。それは僕がホームルームの真っ只中だからだろう。高校生活をスタートさせたこの春。僕はどうもうまく行っていない。周りの進むスピードと空気に取り残されているような気がする。
特に人間関係だ。入学式からもうすぐで1ヶ月が経つ。なのに僕には友達がいない。入学前になぜか仲良くなっているクラスメイト、中学時代にはいなかったイケイケの同級生、端っこに固まって何を考えているのか分からない女子生徒。この先どうやって高校生活を送っていけばいいのだろうか。僕の居場所はあるのだろうか。今にもあの頃のように泣き喚きそうだった。
僕はせっかく思い出したんだからと静かに机に下でおまじないを試した。ぐるぐると回すと手のひらがくすぐったい。昔ってこんなにくすぐったかったっけ。僕は痒くなった手のひらをかいた。
おまじないなんて所詮気休めだ。小学生の頃に持っていた純粋さを失いつつある僕はどこかバカにしていた。赤くなった手のひらをギュッとにぎり肩を落とした。そもそも高校生活がうまく行くおまじないでもないし、やめだ、やめだ。
フーッと息を吐いて顔を上げると横からの視線を感じた。どうか気のせいであってくれと思いながらゆっくり視線を横に向けると隣の席の生徒と目が合った。
「今の何?」
終わった。その瞬間、僕は全てを思い出した。中学1年の春、僕は緊張していつものようにおまじないをした。その時、いじめっ子に見つかって大きな声で馬鹿にされたんだ。……そこからはもう思い出したくない。ちょっとしたことでクラスにおける自分の立ち位置が決まってしまった。そうだ、僕はおまじないを忘れたんじゃない。忘れようとしたんだ。あぁ、そんなことを忘れて僕は再びおまじないをしてしまった。また訳のわからないことをしているヤツだと笑い者にされる。高校生活もこれで終わりだ。
僕はどう返事すれば被害を最小限に抑えられるのか頭をフル回転させた。なかなか答えが見つからない。やばい。やばい。無理だ。
「俺、いつも逆回りだよ。」
「へ?」
答えを必死に考えていた僕は想定外の言葉に変な声が出た。咄嗟に口を押さえ周りに聞こえていないか確認したが、どうやら周りに聞こえるほどの大声ではなかったようだ。
「だから、指のやつ。俺、左回り。」
どうやら同じように手のひらに弧を描くおまじないを知っているが、右回りではなく左回りらしい。僕はそれを聞いて左回りでもおまじないを試してみた。何だか回しにくい。
「腹が立ったらやれって教えられたんだ。」
隣の生徒は先生に声を聞かれないように声を潜めて言った。そして机の下で右回りを試しながら、首を傾げていた。
「僕は、寂しい時とか辛い時にって。」
「じゃあ、右回りが元気を出すおまじない、左回りが気持ちを落ち着けるおまじないってことか?」
「そうかもしれない。」
不思議そうな顔で聞いてきた隣の生徒に僕はそう答えた。右回りと左回りでそんなに違うものだろうか。回転の方向が変わったところで大した変化じゃない。一瞬そう思ったが、反対のことをすると違う意味になるのはあり得る話だと感じた。時計だって右回りで正確な時間が分かるが、左回りになった途端くしゃくしゃだ。右回りが元気を出すおまじないなら、左回りが気持ちを落ち着けるおまじないだっておかしくはない。いや、そもそもおまじないなんて気休めなんだから深い理由なんてないか。
そんなことをホームルーム中にぐるぐる考え、隣の席の生徒のことも少し考えた。そして、もしやかなり喧嘩っ早いのではないかという不安がよぎった。だって腹が立ったら使うおまじないを教えられている男だ。昔からかなり攻撃的だったに違いない。僕はできれば平穏に平和なまま高校生活を終えたい。これからの高校生活、どうなってしまうのかとても心配だ。
ホームルームは淡々と終わり、ぽつぽつと生徒が席を立ち始める。僕は何気なく横の生徒を見た。するとほぼ同時に隣の生徒も僕の方を向いた。
へへっ、という照れ笑いをお互い浮かべ、モジモジしながらおまじないの話をした。案外いい奴なのかもしれない。
その生徒とは高校を卒業して後もずっと連絡取り合っている。なんて関係になるのだろうか。どんな関係を築いて行くかはこの先の自分次第だろう。そんなことは分かっているが不安は消えない。曽祖母に教えてもらったおまじないに力を分けてもらいながら自分らしい高校生活を送るのも別にいいだろう。あくまで気休めなのは分かっている。
とりあえず、隣の生徒が左回りに指を回し始めたら要注意だ。
あとがき
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