第3話:三年目の朝、浴室で一本の髪の毛を見つけた<莉奈>
一真が日本に戻ってきた。
莉奈にとっては、待ちに待った瞬間だった。
二年間。
一真はタイにいた。
その間、莉奈は何度も会いに行った。
タイまで一人で飛んでいったこともある。
そこから二人で別の国へ旅行したこともある。
朝と夜にはLINEをした。
一日返信がないだけで不安になった。
それでも、二人は付き合っていない。
それでも莉奈は思っていた。
「日本に戻ってきたら、何か変わるかもしれない」
海外駐在という特殊な環境だったから、今まで関係が進まなかっただけ。
日本に戻れば、普通に会える。
昼間にランチをして。
映画を見て。
買い物をして。
夜ご飯を食べて。
そういう普通のデートができる。
そして、その延長線上に。
「付き合おう」
という言葉がある。
莉奈は、たぶんそう思っていた。
ところが。
一真が帰国しても、二人の関係は変わらなかった。
会うのは夜。
しかも、飲み会の後。
「今日飲み会あるんだけど、終わったら来る?」
「うん」
これまでと同じだった。
僕は妻から聞いて言った。
「日本に帰ってきたんだよね?」
「うん」
「じゃあ、昼間会えるよね?」
「会ってない」
「なんで?」
「分からない」
これが一番怖い。
理由が分からない。
海外にいたときは、物理的な距離という説明ができた。
でも今は日本にいる。
しかも同じ都市圏にいる。
それでも会うのは夜だけ。
莉奈もさすがに気づき始めた。
「なんか変じゃない?」
友達に相談する。
「昼間会ったことないんだよね」
「一回も?」
「うん」
「休日は?」
「ない」
「旅行は?」
「駐在中はある」
「日本に帰ってきてからは?」
「ない」
友人たちは黙った。
誰かが言った。
「彼女いるんじゃない?」
莉奈は答えなかった。
たぶん本人も、同じことを考えていた。
ただ、認めたくなかった。
一真との関係には、たしかに普通ではない部分がある。
でも。
好きなのだ。
そこが問題だった。
好きな人の不都合な事実は、見えないようにしたくなる。
「忙しいんじゃない?」
「仕事が大変なんじゃない?」
「海外から帰ってきたばかりだから」
莉奈は自分に言い聞かせた。
人間は、自分が信じたい仮説を作るのがうまい。
証拠がなくても。
いや、証拠がないからこそ。
都合のいい説明を作れる。
そして莉奈は、ある夜も一真の家へ行った。
いつも通りだった。
二人で過ごす。
話をする。
笑う。
莉奈にとっては楽しい時間だった。
だから余計につらい。
こんなに楽しいのに。
どうして私は彼女じゃないんだろう。
翌朝。
莉奈はシャワーを借りた。
何気なく浴室に入った。
シャンプーを手に取る。
そして、その瞬間。
目に入った。
長い髪の毛。
シャンプーのボトルに絡まっている。
莉奈は固まった。
自分の髪ではない。
明らかに違う。
長さも違う。
色も違う。
もちろん、一真の家に女性が来たことだけで、恋人がいると決まったわけではない。
母親かもしれない。
妹かもしれない。
友人かもしれない。
ただ。
莉奈には、これまでの二年間があった。
そして日本に戻ってきてからも、昼間には会わない。
休日には会わない。
その状況で見る一本の髪の毛は。
ただの髪の毛ではなかった。
それまでバラバラだった違和感が、一気につながった。
「だから昼間会わなかったの?」
「だから休日会わなかったの?」
「だから付き合おうと言わなかったの?」
考え始めると止まらない。
それでも莉奈は、まだ自分を納得させようとした。
「お母さんかもしれない」
そう思おうとした。
「妹かもしれない」
そう思おうとした。
でも。
無理だった。
一真の家を出る準備をする。
莉奈は何度も迷った。
聞くべきか。
聞かないべきか。
聞いて、
「誰の髪?」
と言えばいい。
それだけ。
でも、その答えを聞くのが怖い。
そして玄関まで来た。
靴を履いた。
一真が近くにいる。
莉奈は振り返った。
そして、言った。
「ねぇ」
一真が見る。
「私じゃだめ?」
一真は黙った。
長い沈黙だった。
莉奈は、その沈黙だけで分かったのだと思う。
そして一真が言った。
「……ごめん」
それだけだった。
説明はなかった。
言い訳もなかった。
「違うよ」
とも言わなかった。
「髪の毛は妹のだよ」
とも言わなかった。
ただ、
「ごめん」
だった。
莉奈は言った。
「分かった」
そして、
「今までありがとう」
と言った。
一真の家を出た。
玄関のドアが閉まった。
そこまでは、莉奈は泣かなかった。
でも。
家を出た瞬間。
涙が止まらなくなった。
三年間。
楽しいことはたくさんあった。
タイにも行った。
海外旅行もした。
普通なら行かなかった場所にも行った。
好きな人と一緒に過ごした時間は、本当に楽しかった。
だからこそ。
余計につらかった。
「こんなに好きだったのに」
「なんで私は彼女になれなかったんだろう」
莉奈は一人では耐えられなかった。
妻にLINEを送った。
「今から会えない?」
続けて、
「一人だと耐えられない」
と送った。
妻はすぐに莉奈のところへ向かった。
二人は近くのカフェに入った。
妻は、泣いている莉奈を見て、何を言えばいいのか分からなかった。
ところが。
席に座った莉奈が言った。
「実はお腹減ってる」
妻は少し驚いた。
そして莉奈はサンドイッチを注文した。
運ばれてくる。
食べる。
泣きながら。
食べる。
そして話す。
一真とのこと。
タイのこと。
旅行のこと。
今日の朝のこと。
そして、
「終わりにする」
と言った。
妻は黙って聞いていた。
そして最後に、
「よく伝えたね」
と言った。
「頑張ったね」
それだけ。
莉奈はまた泣いた。
恋愛は、たまに残酷だ。
三年も好きだった人に、
「私じゃだめ?」
と聞いて。
「ごめん」
と返される。
それだけで終わることがある。
僕はこの話を妻から聞いた。
そして思った。
一本の髪の毛が、三年分の疑問を全部説明してしまうことがある。
恋愛における証拠能力としては、かなり強い。
ただ。
莉奈にとって、本当に辛かったのは、彼に別の女性がいたことだけではないのだと思う。
「私は、この人にとって何だったんだろう」
その答えが分からないまま、三年が終わったこと。
そこだったのではないかと思う。
そして、莉奈はその日。
三年間続いた恋を、自分の手で終わらせた。
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