『編む人』vol.2
人と仕事の縁を編み続けたリクルートのミスター編集者
黒田真行さんの井橋の聞き書き

黒田真行さんプロフィール
1965年兵庫県生まれ、関西大学法学部卒業。1988年、リクルート入社。以降、30年以上転職サービスの企画・開発の業務に関わり、「リクナビNEXT」編集長、「リクルートエージェント」HRプラットフォーム事業部部長、「リクルートメディカルキャリア」取締役などを歴任。2014年、リクルートを退職し、ミドル・シニア世代に特化した転職支援と、企業向け採用支援を手掛けるルーセントドアーズを設立。30年以上にわたって「人と仕事」が出会う転職市場に関わり続け、独立後は特に数多くのミドル世代のキャリア相談を受けている。著書に『採用100年史から読む 人材業界の未来シナリオ』(クロスメディア・パブリッシング)、『35歳からの後悔しない転職ノート』(大和書房)など。
執筆書籍
Amazon著者ページ
『採用100年史から読む 人材業界の未来シナリオ』(クロスメディアパブリッシング)
『35歳からの後悔しない転職ノート』(大和書房)
『転職に向いている人 転職してはいけない人』(日本経済新聞出版社)
『40歳からの「転職格差」 まだ間に合う人、もう手遅れな人』 (PHPビジネス新書)
『2040年の人材ビジネス大予測』(クロスメディア・パブリッシング)
『人材ビジネスのしくみと仕事がこれ1冊でしっかりわかる教科書』(技術評論社)
『いつでも会社を辞められる自分になる』(サンマーク出版)
はじめに
~求人広告屋としての原点~
黒田さんは最初から
編集畑だったわけではない
黒田さんは、最初から編集畑だったわけではない。
リクルートでの出発点は、神戸支社の制作マンだった。
1988年1月7日。
黒田真行さんは、リクルートに入社した。
そのとき、リクルートの求人情報誌は、
大きな転換点を迎えていた。
それまでの『週刊就職情報』が、
『B‐ing』へとリニューアルされる
タイミングだった。
『週刊就職情報』
名前だけを見ると、
いかにも求人誌らしい。
だが、
少し古くさい。
少し硬い。
いかにも
「仕事を探す人のための情報誌」
という感じがする。
それが、アルファベットの
『B‐ing』に変わる。
当時としては、かなり大きな
モデルチェンジだった。

「中途採用市場が
成長する予感を感じていた。
だがそれ以上に、一度会社を辞めると
”脱落者”のように見る
社会を変えたい気持ちが強かった。
”転職者は負け犬ではない”
ことを証明する動きは、
やがて大きなうねりになりました」
(創刊編集長・神山陽子)

’88年1月14日B-ing創刊
しかし、それは単なる
名前の変更ではなかった。
求人市場そのものが
変わろうとしていた。
それまで中途採用の求人誌といえば、
外食、不動産、中小企業などの求人が
中心だった。
黒田さんの言葉を借りれば、
不人気企業や中小企業の求人を集めた媒体。
ところが、1988年ごろになると、
バブル景気の空気が出てきて、
大手企業も中途採用に乗り出し始める。
それまでのトップクライアントが
すかいらーくだった時代から、
ソニーやトヨタのような企業が
巻頭で求人広告を出稿する時代へ。
中途採用が、少しずつ社会の中で
普通の選択肢になろうとしていた。
もともと『週刊就職情報』には、
強いビジョンがあったという。
「転職する奴は負け犬だ」
そんなふうに言われていた時代に、
「胸を張って人生をやり
直せる社会をつくろう」
という思いでつくられた
媒体だった。
黒田さんがリクルートに入ったのは、
その思想が次の時代に向けて形を
変えようとしていた時だった。
求人情報誌が、単に求人情報を掲載する
媒体から、企業と働く人の関係を
変えていく媒体へと変わろうとしていた。
転職が、敗者の選択
ではなくなっていく。
企業も、働く人も、大きく
変わろうとしていた。
その渦中に、黒田さんは
中途採用求人広告の制作マン
としてリクルートに飛び込んだ。
第1章
神戸支社勤務時代
黒田さんは当初、大阪に来るように
言われていた。
しかし、家が西宮だったこともあり、
「神戸で働きたい」
と希望し、神戸支社に
入ることになった。
当時、リクルートの関西に
おける大きな拠点は大阪だった。
大阪には関西本社的な機能があり、
人も情報も集まっていた。
一方、神戸支社は、そこから少し
離れた拠点だった。
大阪の中心から見ると、
少し外側にある小さい所帯の拠点。
黒田さんは、そのころの神戸支社を、
どこか「落ちこぼれ学級」のようだった
と振り返る。
当時のリクルートには、
いくつもの見えない序列があった。
事業部による序列。
職種による序列。
雇用形態による序列。
ひとことで「リクルート」と言っても、
その中には複雑な階層があった。
当時の世の中は、まだまだ
新卒採用が中心だった。
企業にとっても、学生にとっても、
就職といえば、新卒採用であり、
転職は今ほど一般的な
選択肢ではなかった。
そのため、リクルートの中でも、
新卒採用を扱う事業は花形だった。
大企業の採用。
学生向けの就職情報。
大きな予算。
そこには、いかにもリクルートの
本流という空気があった。
一方で、黒田さんが配属された
神戸支社の中途の求人広告事業は、
その本流からは少し外れた場所にあった。
扱う求人は、
外食、不動産、流通、中小企業などが多い。
企業の名前だけで人が
集まるような仕事はほとんどない。
だからこそ、営業が足を運び、
制作が言葉を尽くし、
どうすれば応募してもらえるのか?
を考え続けなければならなかった。
その神戸支社で、
しかも中途の求人広告。
リクルートの中で、決して花形の
場所ではない。
けれど、時代はバブルに向かっていた。
企業は人を求めていた。
とくに外食、不動産、流通、中小企業の
現場では、人が足りなかった。
神戸支社にも、毎日のように求人広告の
仕事が流れ込んでくる。
華やかな本流ではない。
けれど、社会の変化と人手不足の熱が、
いちばん直接的に
押し寄せてくる場所でもあった。
求人広告の量は、とにかく多かった。
営業が次々と受注を取って帰ってくる。
制作は、その原稿をひたすら書く。
夜中の三時、四時まで原稿を作って、
オフィスの床に転がって眠ることも
珍しくなかった。
原稿を書いた翌日に
入稿しなければならないのは毎週のこと。
黒田さんは、その職場を
「野戦病院みたいなところ」
と表現していた。
三時、四時まで働いて、
そのあと明け方まで飲みに行くことも。
今の感覚では考えられないような働き方だが、
当時のリクルートには、そういう熱と荒さがあった。

流れていたのも88年から。
今とは違う仕事観
黒田さんのリクルート人生は、
きれいに整った環境の中で始まったわけではない。
バブル期の人手不足。
大量の求人広告の受注。
大量の原稿制作に追われる日々。
営業とのやりとり。
クライアントからの赤字入れ。
夜中まで終わらない原稿作り。
そういう混沌の中から
リクルート人生が始まった。
第2章
手を抜けと言われても、
手を抜かなかった
そんな職場で、黒田さんは制作マンとして働き始めた。
当時、上の立場の人からは、
こう言われることもあったという。
「手を抜いていいから、一本でもたくさん作れ」
「時間をかけるな」
「とにかく数をこなせ」
営業が大量に受注してくる以上、
制作も大量に原稿をさばかなければならない。
ひとつひとつの原稿に
時間をかけていたら、仕事が回らない。
それは職場の理屈としては、
ある意味では当然だった。
けれど、黒田さんは手を抜かなかった。
もともと黒田さんは、
新聞記者になりたいと思っていた。
リクルートに入ったのも、
求人広告を書く仕事が、文章を書く
訓練になると思ったからだった。
だから、手を抜くことが嫌だった。
そして何より、営業が必死に取ってきた仕事を、
雑に扱うこともできなかった。
若い営業が困っていれば、
サポートしながら原稿を作った。
ほかの制作が断るような無茶な発注も、
陰で引き受けた。
「俺が作るから」
そう言って引き受け、向き合った。
しかし、無茶を引き受けたから
といって、雑に作るわけではない。
手を抜くことはしなかった。
そこに、黒田さんらしさがある。
大量の仕事に追われる中で、
効率だけで考えれば、手を抜いたほうが
楽だったかもしれない。
しかし黒田さんは、求人広告を
ただの広告とは見ていなかった。
その先には、お金を払っている企業がいる。
人を採りたいと思っている会社があり、
困っている中小企業の経営者がいる。
そして、人生を賭けて転職先を探す人がいる。
だから、手を抜けなかった。
そんな黒田さんの仕事の向き合い方に触れる中で、
営業たちは黒田さんを信頼するようになっていった。
あいつに頼めば、
ちゃんと作ってくれる。
あいつは断らずに拾ってくれる。
そう思われるようになっていった。
神戸支社の中で、黒田さんは少しずつ
頼りにされる存在になっていった。
第3章
クリエイターではなく
求人広告屋
当時のリクルートの制作には、
「クリエイティブ」という空気があった。
広告賞を取ること。
切れ味よいキャッチコピーを書くこと。
かっこいいビジュアルで見せること。
そんなクリエイティブに磨きをかけ、
広告賞を取ることにモチベーションを
持っている制作マンがほとんどだった。
実際、すごいコピーを書く人たちがいた。
短い言葉で、企業の魅力を一気
に伝える人。
デザインで、見る人の心をつかむ人。
一方、黒田さんの原稿は、
しっかりと文章で
読ませる原稿だった。
なぜ、この求人をするのか。
どんな働く場なのか。
どんな人に来てほしいのか。
来た人に、どんな未来があるのか。
それを言葉で積み上げていく。
短いコピーで一気に射抜くというより、
会社の事情や仕事の意味を、丁寧に
書き込んでいく。
そんな原稿だった。
文字量が多ければ、
当然、修正も増える。
クライアントから赤字も入る。
原稿制作の手間も増える。
それでも黒田さんは、
そのやり方をやめなかった。
なぜなら、それが自分にとって、
効果を出すための一番の方法
だったからだ。
黒田さんは、自分のことを
クリエイターだとは思っていなかった。
求人広告屋だと思っていた。
カッコいいコピーを書くことが
目的ではない。
広告賞を取ることが目的でもない。
なんとかお金を出した企業に
欲しい応募者が集まること。
求職者が自分に合った企業に
出会えること。
それが求人広告の役割であり、
クリエイティブは求人広告が
追い求めるものではない、と
思っていた。
黒田さんにとって、
制作の仕事は、
作品づくりではない。
1社と1人をつなぐ仕事だった。
第4章
サンパーク
ヤマダストアー
制作マン時代の原点として、
黒田さんが特に印象深く語った仕事がある。
姫路で三店舗ほどを展開していた
スーパーマーケット、
サンパークヤマダストアー
の求人広告である。

店舗数10店舗、売上高210億円、従業員920名
と大きく成長している
営業担当は、高橋陽一郎さんだった。
当時、黒田さんと最もたくさん仕事を
していた神戸支社のトップセールス営業である。
営業と制作というより、
バディのような関係だった。
高橋陽一郎さんが新規アポイントを取ってくる。
アタック原稿を作成し、二人でプレゼンテーションに行く。
黒田さんが原稿の趣旨を説明し、
高橋さんがしっかりクロージングして受注する。
その後は
「ここから先はクロに頼むわ」
通常は、クライアント対応は
営業の役割なのだが、
一度同行したクライアントや、
現Sと呼ばれる固定顧客には、
黒田さんが原稿作成からクライアント対応まで担っていく。
当時、サンパークヤマダストアーの社長は、
これから店舗展開をしていくために、
中核になる人材を採りたいと考えていた。
しかし、求人広告を出す費用がなく
国民金融公庫からお金を借りて、出稿した。
広告費は1回76万8000円。
当時のサンパークヤマダストアーに
とって、それは決して軽い金額ではなかった。
黒田さんは、その社長のところへ
取材に行った。
お茶やコーヒーを頂きながら
3時間くらい話を聞いた。
社長のこの求人にかける熱量を
全身で浴びた。
「良い人が採用できる原稿を
書いてくださいね」
神頼みをするかのような
強い握手に期待の大きさを感じながら、
黒田さんは原稿を書いた。
その原稿が掲載された『B‐ing』の発売日。
まだ午前中にもかかわらず、
社長から電話がかかってきた。
「黒田さん、まだ応募者からの電話が
鳴らんのやけど、B-ingは売れてますか?」
その言葉を聞いたとき、黒田さんは
胸が張り裂けそうになったという。
社長は、借り入れまでして広告を
出稿している。
そのお金は、店でキャベツを
何玉も何玉も売って得た利益を積み上げた
お金である。
そのお金を、自分の作った原稿で
ドブに捨てさせてしまったのではないか?
黒田さんは、そう感じた。
そして結果、応募はなかった。
上司の営業所長に、もう一回、
サービスで掲載させてもらえないか
と相談した。
しかし返ってきたのは、
「アホか。もう一回受注してこい」
という言葉だった。
そこで黒田さんは、自分の原稿の
どこが悪かったのかを書き出し、
もう一度社長のところへ行った。
そして再び受注した。
しかし、2回目も
応募は来なかった。
3回目の掲載で、ようやく
1人の応募者が来て採用。
中田さんという、
35歳の人だった。
当時23歳の黒田さんは、その人と
直接話したわけではない。
けれど後日、近くの別の会社へ
取材に行った帰りに、
サンパークヤマダストアーへ
立ち寄った。
社長に、
「この間、1人採用できたと
聞きましたけど、その後いかがですか」
と尋ねると、社長は店の奥を
指して言った。
「あそこで頑張ってくれてる。
ええ人来てくれたわ」
黒田さんは、その人の背中を見た。
直接話したわけではない。
ただ、働いている
背中を見ただけだった。
中田さんもきっと、いい会社に
来ることができたと思っているの
ではないか。
そう感じた。
会社にとっては、いい人が来てくれた。
働く人にとっては、いい会社を
見つけることができた。
その両方が成り立った瞬間だった。
この経験は、
黒田さんの中に深く残った。
求人広告とは、
ただ応募を集める
ためのものではない。
1人の人と、1つの会社が
出会うためのものだ。
その出会いによって、
会社の未来が変わる。
その人の人生も変わる。
黒田さんの、中途採用の求人広告の仕事
の原点はまさにここにあった。
第5章
1社と1人をつなぐ仕事
黒田さんは、制作マン時代を振り返って、
効果を出すことを何よりも大事にしていた。
クリエイティブで評価される
ことよりも、応募が来ること。
企業が求めている人と出会えること。
採用された人が、その会社で働くこと。
営業は、クライアントに向き合う。
制作は、そのクライアントの
言葉を求人広告にする。
けれど、黒田さんはそれだけでは
終わらなかった。
営業が取ってきた仕事を、
ただ原稿にするのではない。
その会社が本当に求めている人は
誰なのか。
その人に何を伝えれば届くのか。
その会社で働くことは、
その人にとってどんな
意味を持つのか。
常に深く考え、想像しながら
1つ1つの原稿に向き合っていた。
だから、ボディコピーが長くなる。
説明が増える。
言葉を尽くしたくなる。
それは、単に文章が
長いということではない。
黒田さんにとって、求人広告は、
会社と人の間に橋をかけるものだった。
表現の方法はいくつもある。
それでも黒田さんは、丁寧に言葉を重ねることで、
その会社のことを伝えようとした。
その姿勢が、後の編集の仕事にも
つながっていく。
目の前の1社を見る。
そこで働く1人を見る。
会社の未来を見る。
仕事を探す人の人生を見る。
黒田さんが後に編集者となり、
編集長となっていくうえで、この制作マン時代の
感覚は、間違いなく土台になっていた。
「閑話|あの頃の求人広告名作選」

妻はママとして頑張ってきたのですが、先日他界してしまいました。
ママの遺志を継いで一緒に働いてくれる方を募集します」
1980年代後半『週刊就職情報』

彼女が出掛けるときは、部長と私(社長)が受付にすわります。
今回、結婚のため彼女が退職することとなりました。
どなたかわたしたちを手伝っていただけませんか?
セントラルヒルズ販売『B-ing首都圏』

株式会社松本工務店「B-ing関西版」(1995年)
第6章
リクルートを見る目が変わっていく
もともと黒田さんは、リクルートに強い憧れを
持って入ったわけではなかった。
新聞記者になりたかった。
社会に必要な情報を届ける
仕事がしたかった。
そのための文章修業として、
リクルートの求人広告制作の仕事を選んだ。
最初は、リクルートのことを、
どこか商売優先の会社のように
見ていたところもあったという。
しかし、職場に入って、
その見方は変わっていった。
求人広告を作るということは、
そんなに軽い仕事ではなかった。
サンパークヤマダストアーの仕事で
痛感したように、広告の向こうには、
費用を捻出して人を求める企業がいて、
人生を変えようと応募する人がいる。
その出会いが、会社を変え、
人の人生を変えていく。
その一連の流れを現場で見ていくうちに、
黒田さんは求人広告という仕事に
本気になっていった。
まだ転職が主流でない時代。
自社で活躍できる人を採用するのが
難しい中小企業がある。
転職で人生を変えていきたい
求職者がいる。
その両方にとって、リクルートは
すごく重要な事業をしている会社だった。
黒田さんは、そのことを制作マン時代の
現場で知っていった。
第7章
情報とは、情けに報いること
制作マン時代の黒田さんに
大きな影響を与えた人の一人に、
岡本武史さんがいる。
岡本さんは、黒田さんを採用した
関西支社の編集長であり、後に黒田さんを
編集の世界へ引っ張った人でもある。
もともとはミュージシャンで、
吉田拓郎さんのバックで演奏していた
こともあるという。
黒田さんより15歳ほど年上で、
大阪時代の黒田さんにとって重要な先輩だった。
その岡本さんが、かつて広告代理店に
いたころ、上司から問われた言葉がある。
「情報って何だろうね」
その問いは、やがて黒田さんにも向けられた。
岡本さんと黒田さんの重要な接点について、
黒田さんのリクルートの先輩で、
新卒採用事業部で神戸支社のマネジャー
をしていたブロガー、画家、音楽家の神生六(かみお・むつ)氏
が書かれた箇所があるので、引用させていただく。
<以下、引用>
岡本は、前職の上司から投げかけられたテーマ
「広告と情報」の違い、そして「情報」というものの本質について、
先輩や同僚、後輩に対して問い続け、考え続けてきた。
そして、そのことを、のちに岡本が編集長の
バトンを渡す黒田真行に、まだ黒田が駆け出しの頃に問う。
その翌日、岡本の机の上には朝日新聞の三面記事と、
同じことを扱った毎日新聞の三面記事とが並べて置いてあった。
どちらもある女性の火の不始末によって
大きな火災があったことを報じたものであった。
同じ件に関する「情報」だったが、
両者には違いがあった。朝日新聞には、
「火災の原因は女性の火の不始末であったが、
女性の不注意によるものだった」
と書かれており、一方の毎日新聞には
「連日の夜勤明けで疲れ果てた女性が、
火が燃え広がるのに気がつくのが遅れた」
と書かれていたのである。
この二つの切り抜きを、
黙って岡本の机に置いたのは黒田真行だった。
岡本は、黒田のこの「答え」に
胸が熱くなるとともに、問い続けてきた
「情報とは何か」という問いへの
解と確信を得たのである。
そうだ、これが「情報が人間を熱くする」
ということなのだと。
<引用終わり>
長編ノンフィクションビジネス小説「かもめのDNA」第17話より
同じ出来事でも、
書き方によってまったく違う。
ただ出来事を伝えるだけなら、
情報は事実の羅列になる。
しかし、その人の背景まで
想像して書けば、情報から人が見えてくる。
黒田さんは、そこに自分の関心を
持っていた。
求人広告も同じだった。
会社名。
職種。
給与。
勤務地。
条件。
それだけを書けば、
求人広告にはなる。
でもそれだけでは、その会社がなぜ
人を必要としているのかは伝わらない。
その会社に
どんな人たちがいて、
どんな未来を描いていて、
どんな人に来てほしいのか。
応募する人にとって、
その仕事がどういう意味を
持つのか。
そこまで書いて初めて、
情報から人が見えてくる。
黒田さんにとって、求人広告とは、
それぞれの会社の事情を伝えて
企業と転職者に報いるものだった。
「情報とは
情けに報いること」
この揺るがない指針は、
制作マン時代に芽生えていた。
第8章
制作から編集へ
黒田さんは、制作マンとしておよそ
6年働いた。
1988年1月に入社し、1994年4月に
編集へ移る。
最初は神戸支社。
その後、新大阪へ。
新大阪に移ると、担当する会社の色も
少し変わっていった。
なにわ金融道のような世界に
近い会社もあった。
「いい会社なんで」
若い営業にそう言われて取材に行ってみると、
現場では赤ちゃんを連れた女性が泣き叫んでいる。
そんな場面に出くわすことも
あったという。
「何がええ会社やねん」
そう思うこともあった。
営業の言葉をそのまま信じて
原稿を書くわけにはいかない。
会社を見る目が必要だった。
人を見る目が必要だった。
その場の空気を感じる力
が必要だった。
それもまた、制作マン時代に
鍛えられたことだった。
そして1994年4月、
黒田さんは編集へ移る。
制作課長でもありながら、
B-ing編集長を兼務していた
岡本さんが引っ張った。
それは、黒田さんにとって
大きな違和感のある異動ではなかった。
もともと新聞や出版を
やりたかった人である。
制作の仕事にも愛着はあった。
けれど、編集の仕事は、
自分がもともとやりたかったことに近い。
読者の興味を引く
本が売れる企画を作る。
電車の中吊り広告を作る。
編集記事を作る。
黒田さんは、そこで自分なりの力を
出せるのではないかと感じていた。
自分から「編集に行きたい」
と言ったわけではない。
けれど、きっとやれる。
そういう自信はあった。
ただし、そこから先は、
また別の物語になる。
編集には編集の世界があった。
リクルートの中にも、
編集民のような人たちがいた。
制作上がりで、しかも関西の
黒田さんはアウェイだった。
東京の編集民から見れば、
関西の編集など田舎の編集ごっこ
のように見られていた。
出版業界から見れば、
リクルートは広告屋だった。
広告業界から見れば、
リクルートは異端だった。
その中で、黒田さんは
編集者として戦っていくことになる。
しかし、その土台となったのは、
6年間の制作マン時代だった。
夜中まで原稿を書き続けた日々。
手を抜けと言われても、
手を抜かなかった日々。
社長の借り入れた
お金の重みを感じた日。
応募の電話が鳴らず、
胸が張り裂けそうになった日。
三回目の広告でようやく採用が決まり、
店の奥で働く応募者の背中を見た日。
黒田さんが後に編集者となり、
編集長となり、媒体全体を見ていくようになっても、
その原点には、制作マン時代のこの感覚があった。
求人広告は、ただの広告ではない。
会社と人をつなぐものだ。
1社と1人が出会うことで、
会社の未来が変わり、
人の人生も変わる。
そのことを、黒田さんは
制作の現場で身体に刻んだ。
だからこそ、黒田さんの編集は、
単なる誌面づくりではなかった。
読者の背後にある人生を見る。
企業の背後にある事情を見る。
情報を届けることで、
誰かの状況が変わる可能性を見る。
黒田さんは、制作マン時代から
人と仕事の縁を編み続けていた。
『編む人』vol.2の終わりに
私自身も、リクルートで
求人広告の営業をしていた。
今回、黒田さんの話を
聞きながら改めて思ったことがある。
あれから、求人広告の形は大きく変わった。
紙の求人情報誌からウェブへ。
Indeedをはじめする求人検索の仕組みや、
さまざまな採用サービスが生まれ、
原稿の作り方も、届け方も、
当時とはまるで違う。
しかし、その向こうで
起きていることは、今も変わっていない。
人を必要としている会社がある。
新しい仕事を探している人がいる。
その1社と1人が出会う。
その出会いによって、
会社の未来が変わり、
人の人生が変わる。
今この瞬間も、新しい求人の仕組みの中で、
そんな出来事がそこかしこで起きている。
技術やサービスや広告表現が
どれだけ変わっても、
その事実は変わらない。
求人広告の現場にいた一人として、
今、求人広告の仕事に携わっている人たちにも、
黒田さんのこの話を知ってもらいたいと思う。
求人広告の形は変わっても、
その向こうには会社があり、人がいる。
人と仕事の縁を編むという
仕事の本質は、今も変わっていない。
次に聞きたいのは、その黒田さんが
編集の世界に入り、
何を見て、何と戦い、
どんな編集者になっていったのかである。
