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節分の温度、角のない影👹

立春を目前にした風は、薄い剃刀かみそりのように頬を撫で、街から余計な湿り気を奪っていく。

暦の上では春が隣り合っているはずなのに、世界はまだ、深いはなだ色の沈黙の中に閉じ込められたまま。

くりやの隅で、母が炒った豆の匂いが二階にまで伝わってくる。
それは乾いた土の匂いに似て、噛みしめると口の中で小さくぜ、冬の蓄積が粉々に砕けていく音がした。
誰かの「鬼は外」 の声が、誰もいない廊下の奥へと吸い込まれてゆく。

鬼。
それは角が生え、牙をいた恐ろしい形相の怪物ではなく、もっと静かで、重たい意志のような気がする。

部屋の隅に溜まった淀みや、言いそびれた言葉のかす、あるいは、いつまでも止まらない時計の秒針をぼんやり眺めているときの虚ろな空気。
そんな、名付けようのない「影」のことを、昔の人は鬼と呼んだのかもしれない。

庭先から摘んだひいらぎの小枝を、玄関の柱に挿す。
その鋭い葉の先に、焼いたいわしの頭を添える。
銀色のえらが街灯を鈍く跳ね返し、特有の脂の匂いが冷気の中に溶け出していく。

魔除けなんて、おまじないみたいなもんだから、と母は笑うけれど、その柊の葉が冷たい風に震えるたびに、家の境界線がわずかに強固になるのを感じる。
匂いととげ
あまりに原始的な結界が、目に見えない悪意や災いを食い止める壁になる。
そんな不条理な確信が、今の私には、科学的な証明よりも温かく感じられた。

鎮守の森に入って氏神様を詣でると、境内は古い木々の臭気で満ちていた。
手水舎ちょうずやの冷たい水に指を浸すと、感覚がいちど消えて、それから新しく生まれ変わるような痛みが走った。

拝殿へ続く石段を一段登るごとに、空気の粒子が細かくなり、肌に触れる温度が一段ずつ下がっていく。

目を閉じ、静かに手を合わせる。
そこには神様という巨大な存在が鎮座しているのではなく、ただ、何千年も繰り返されてきた人々の祈りの層が、地層のように積み重なっているのだと思う。

人の吐息と、焚き火の煙と、願い事の重みが、この聖域の湿度を少しだけ上げている。
目に見えない何かの気配。
それは、誰かが私を呼ぶ声ではなく、ただ、ここに存在してもいいのだという、無言の許しのようなものだった。

帰り道、コンビニの看板がいつもより遠くに見える。
スマホのニュースがあすの天気を告げている。
ポケットの中にある、さっき境内で頂いた豆の欠片かけらを指先でなぞった。
一粒の豆が、何世代もの冬を越え、今日私の口の中で音を立てたこと。
イワシの頭が、夜の闇をじっとにらみつけていること。

明日の朝になれば、節分という境界線は消えて、また新しい歳の時間が動き出す。
たとえ君の時計が止まったままでも、季節はこうして、私の指先の温度を借りて巡っていく。
カレンダーの3日の文字をなぞってみると、微かに芽吹くような音がした。

掃除を終えて広くなった部屋の隅に、少しだけ春の匂いが混じっていた。
それが、鬼を追い出したあとに残された、天からの賜物だったのかもしれない。
ノートにきょうの一首を置いて、まだ冷たい布団に入った。


炒り豆の 爆ぜる音だけ 連れ帰る 鬼も神影も いない部屋へと🌿


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