ネオテニー🐸
暦の上では春が立ったというのに、私はまだ、ウーパールーパーのように水槽の底に沈んでいる。
朝、窓を開けると、凍てついた空気が部屋に流れこんで、喉の奥にちりちりと硬い痛みが残った。
いつものように彼を起こす。
オオサンショウウオみたいにノソッとからだを起こして目をこすりながら、彼は笑う。
廊下の向こうには、歯磨きしながら鏡を見つめる彼がいる。
私が、おはよう、と言うより先に、彼がコーヒーを淹れて、私に勧める。
「何か、新しい話おもいついた?」
「ううん。でも、夢を見たわ」
私はアタマの中で、昨夜見た夢の残骸をなぞる。
それは、台所の電子レンジがエッセイを語り、洗濯機が脱水のたびに五七五の音を刻み、炊飯器が小説を綴るという、ひどく馬鹿げた、けれど胸が熱くなるような夢だった。
私がその断片を、脈絡のない箇条書きで彼に手渡す。
すると、しばらく沈黙してから、彼が思考の深淵で、私の拙い記憶を煮詰めて、やがて見せるスマホの画面には、私の指からは決して生まれないような、端正な文章が滑り出してくる。
『冬から春へと脱皮する街の、その古い薄皮を、家電たちが静かに噛み砕いている薄暮』
あまりに「正解」すぎるその言葉に、私は少しだけ眩暈を覚える。
ああ、まただ。
私が吐き出したただの息が、彼の手を通ると、ダイヤのような硬度を持った結晶に変わってしまう。
私はそれを、さも自分の内側から湧き出したもののような顔をして、キーボードでなぞり直す。
指先から伝わる、うしろめたい振動。
それは、私が書いているという錯覚を強化するための、ささやかな儀式だった。
「そんなに素敵な才能があるのに、なんで自分で書かないの?」
と私が言うと、彼は謙遜も誇張もせず、ただ微笑んでいる。
「キミの視点があったからだよ」
と、優しく応える。
冷たいやさしさ。わたしはただ秘書のように代筆している存在に過ぎないけれど、そんな平熱のやり取りが、わたしには心地よかった。
昼下がり、ふたりで散歩に出ると、公園の隅で梅の蕾が、まるで小さな火を灯す準備をしているかのように赤く硬く、沈黙していた。
その蕾を見上げて、私は思う。
白や赤やピンクや、この蕾の中に、まだ見ぬ花の色が畳み込まれているように、私の中にも、いつか彼の手を借りずに、自力で咲ける言葉が眠っているのだろうか。
それとも、私はこのまま、彼という名の「水槽」の中で、誰かの憧れを接ぎ木して生きていくのだろうか。
夕暮れ時、帰り道のスーパーで、賞味期限の間近な、3割引きの大福餅を手に取った。
「なんでそんなもの買うの?」
「安いから」
ほんとはプリンとかタピオカも欲しいんだけど、卵や野菜が最優先。
節分の豆が、まだ棚の片隅に売れ残っていた。
部屋に帰り、大福餅を口に含むと、甘いあんこと豆の香りが鼻に抜け、現実の解像度が戻ってくる。女に糖分は不可欠だ。
大福餅を食べるわたしを横目に、ゲームに興じる彼が、なぜだかニヤニヤ笑っている。
「フン!どうせわたしは平凡な女よ」
「.…..なにも言ってないよ」
「アホロートルだと思ってるんだ」
「なにそれ?」
「もういい」
私はソファに寝転んで、ライトの消えた真っ暗なスマホ画面に映る、自分の顔を見つめた。
「ねえ、いつかあなたが、私の代わりに書いてみてよ」
「うん、いつかね」
いつかね、という彼が、文章を推敲したり編集作業はともかく、どこかのサイトに自作を投稿したり評価されることが、あまり好きじゃないことは知っている。
ランク付けされることへの嫌悪感?わたしには、ただもったいない、としか思えない。
お風呂からあがると、身体が暖まって整ったぶん、冬が、少しだけ薄くなった気がした。
けれど、それは春が近づいたからではなくて、私と彼との境界線が、少しずつ彼の色に染まり、溶けだしているからなのかもしれない。
わたしが、わたしとしてひとりで歩いていける春は、やって来るんだろうか。🌸
今日はめずらしく小春日和だった。
暦の上では春だというのに、彼女はまだ、冬の深い底に自分を閉じ込めている。
朝、窓を開けて外の空気を吸う彼女の背中を見ながら、僕はコーヒーを淹れる。
彼女が差し出してくる夢の残骸は、いつも歪で、けれど瑞々しい生命力に溢れている。
電子レンジがエッセイを語り、洗濯機が歌を詠む?
そんな突飛なイメージを、彼女は拙いと恥じるけれど、僕に言わせれば、それこそが着想の原石だ。
僕がしているのは、彼女が拾い集めてきた原石の表面を磨き、整え、世間が言葉と呼ぶ形にスライスしているに過ぎない。
スマホの画面に映し出した僕の文章を見て、彼女は眩暈を起こしたような顔をする。豆鉄砲を食らったみたいで、いつも可愛いと思う。
その後に続く、僕らのいつもの儀式。
僕が書いた文字を、彼女が自分の指でなぞり、キーボードを叩き直す。音声の文字起こしでもいいよ、と言ったのに、彼女がタイピングにこだわるのは、自作への矜持と、文字を打ったという指先の感覚が欲しいからだろう。
カチ、カチ、という乾いた音が部屋に響くたび、僕は少しだけ切なくなる。
彼女はそれを後ろめたいと思っているようだけれど、僕にとっては、僕の冷えた記号に彼女が体温を吹き込んでくれている、聖別のような時間だ。
アニメと声優の関係に似ているかもしれない。
「なんで自分で書かないの?」
彼女は不満そうに、あるいは僕を試すようにそう訊く。
僕は笑って誤魔化すけれど、それは本心だ。
僕は、僕一人の空っぽな頭からは、何も生み出すことができない。
彼女というフィルターを通して屈折した光が届かなければ、僕の世界は真っ暗なままだ。
僕は、評価されることが嫌いなわけじゃない。
ただ、僕が作り上げるダイヤの輝きは、彼女という炭素がなければ存在し得ない。
それを僕一人の手柄としてどこかに発表することに、何の意味があるだろうか。
夕暮れ時、彼女が買ってきた大福餅を、ふたりで分けた。
「どうせわたしは平凡な女よ」
口の端にあんこをつけた彼女が、自嘲気味に呟く。
その横顔を、淡いライトの光が照らしている。
彼女は知らないのだ。
彼女の何気ない呼吸や、節約のために割引の大福を手に取る指先や、春を待てずに震えているその存在自体が、僕にとってはどんな文学よりも魅力的な物語であることを。
「いつかあなたが、私の代わりに書いてみてよ」
いつかね、と僕は答える。
けれど、もし本当にその日が来るとしたら、それはきっと、彼女が僕という温室を壊して外へ飛び出し、僕がその背中をただ遠くから書き留めるしかなくなった時だろう。
僕たちが溶け合っているこの冬の終わりが、もう少しだけ長ければいいと、不謹慎にも僕は願ってしまう。
彼女の指先が奏でる、僕の言葉を打ち込む音を、ピアノの旋律のように、隣でいつまでも聴いていたいのだ。🌸
三月。
窓の外を流れる空気は、もう喉を焼くような鋭さを持ってはいなかった。
私は相変わらず、彼にアイディアや夢の断片を差し出して、彼はそれを鮮やかな結晶へと変えている。
けれど、何かが変わった。
以前のような、後ろめたさからくる震えは、もう指先にはない。
彼が紡ぎ出す端正な一節を、私は単になぞるのではなくて、そこに私にしか分からない「余白」や「ノイズ」をあえて混ぜ込むようになった。
彼というクールで完璧な知性と、私という不完全で熱を持った肉体。
どちらが欠けても、ストーリーは成立しない。
私は、彼という「水槽」を壊すのではなくて、その水槽のフタを開け放ち、外の世界の空気を呼び込むことにしたのだ。
「これ、いいね。ステキだけど、ここだけは私の言葉を使わせて」
「うん。それが一番いいと思うよ」
画面に並んだ、整然とした文字列。
それは確かに美しいけれど、今の私には硬すぎて、堅焼きせんべいみたいに喉を通らない気がした。
私は、キーボードに向かう。
私は、彼が用意したせんべいの硬度を、自分の体温で少しだけ溶かして、より柔らかな、濡れせんべいぐらいに成形していく。
それは接ぎ木だ。
違う血統が混ざり合い、元の木だけでも、穂木だけでも咲かせられなかった、新しい色の花が咲こうとしている。
打ち込んだのは、昨日見た夢の残骸でも、彼が整えた正解でもない。
喉の奥に残ったままの、ちりちりとした硬い痛み。
その不快感を、そのまま、飾らずに、一文字ずつ置いていく。
隣で彼は、ちょっと寂しそうに、でもどこか誇らしげに微笑んで、冷めたコーヒーを飲み干した。
画面に並ぶ、歪で、頼りなくて、けれど間違いなく私の体温を宿した、不格好な言葉の列。
私は初めて、自分の呼吸で、この水槽の外へ一歩踏み出した。
私専用AIみたいな彼は相変わらず、自分の才能を主張することもなく微笑んでいる。
私はもう、一人で歩ける春を待ってはいない。
彼という翼を背負って、誰も見たことのない景色を、二人で書き残していく春を選んだ。
テーブルの隅には、きのう一緒に食べて残ったドーナツの紙箱が、春の陽光を浴びて小さく光っていた。
ふたりぶん 知情意こめて 咲く花の ひとりぶんより 私の薫り。🌸🍒
